2013年3月30日土曜日

今日の路地12 「名」と路地

今回は入江研究室で行われている路地ゼミ中に登場する街路・路地に関する「名」の理論に対して、ヴァルター・ベンヤミンの言説を上乗せすることを目的とした。

ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)はドイツの批評家。ユダヤ系であり独自の美学的象徴論や寓意論を展開。ナチ時代には亡命地のパリなどでマルクス主義的芸術論や社会史研究を行った。パリ陥落後、逃亡の途上ピレネー山中で自殺。ベンヤミンの系譜が断片的にしか残っていないことや、自殺に至る所以はすべて、歴史の「起伏」のなかで発生した。技術社会の急激な発展の裏側で発生した余条件により、ベンヤミンの運命は決定されてゆき、その最もたる戦争の勃発により、自身の人生に悲運な終止符を打った。この断片的かつ時代に切り込むような言葉にこそ思想の確信があり、他者はベンヤミンを断片として記憶することは出来ても、その全体像を理解するものはいない。孤立を畏れぬ強靭な精神力、近代化に対する盲目的な忠誠から抜け出し、自身の断片と現在形を表明するために前進し、群衆のなかに都市を見た。都市、技術を錯覚する天才的陶酔者、あるいは複製技術時代の彷徨える迷子である。


私達の路地に対するノスタルジーを含む感覚は近代以降の知的思潮の影響からも派生してきていることはゼミから学習することが出来た。ベンヤミンの生きた複製技術の芸術時代を初めとする様々な思考、都市に対する陶酔経験は日本の路地の文脈とも本質的に繋がっているのである。何故なら現代の路地を知覚するのは近代以降の教育を受け、ある程度の固定観念を必然的に持ってしまった私達であるからである。


街路名にひそむ感覚性。それは普通の市民にとってどうにか感じとれる唯一の感覚性である
ヴァルター・ベンヤミン著『パサージュ論』断片群P「パリの街路」に登場する一節である。


「名」として街路・路地に新たな情報を付加することは、歩行者に対して純粋で感覚的な印象を呼び起こし、その印象は目の前に広がる路地の物理的な印象と相互浸透・二重化することで想起可能なイメージを増加させることが可能である。

「こうしたヴィジョンを引き起こすことができるのはたいていの場合、麻薬に限られている。ところが実際には街路名もこうした場合に、私達の知覚を押し広げ、多層的にしてくれる陶酔を起こすものとなる。街路名が私達をこうした状態へと誘ってくれる力を換気力と呼びたい。-だがそういっただけでは言い足りない。なぜなら連想ではなくイメージの相互浸透がここでは決定的だからである。ある種の病理現象を理解するにはこの事実を想起しなければならない。何時間も夜の町を徘徊し、帰るのを忘れてしまうような病気の人は、おそらくそうした力の手に落ちたのである。」

「普通ならごくわずかな言葉、すなわち特権階級にある言葉だけにとっておかれたことがらを、都市はすべての言葉に、あるいは少なくとも多くの言葉に可能にした。すなわち、名という高貴な地位に格上げされることである。この言語における革命はもっともありふれたもの、すなわち街路によってなしとげられた。街路名によって、都市は言葉の宇宙となる。」

以上『パサージュ論』断片群Pより抜粋。今後の路地に関する「名」の考察に対し都市を記号化しコード化してきた近代以降に始まる都市形成理論の一連の流れを理解することは重要である。

文責 赤池一仁

2013年3月29日金曜日

今日の路地11 路地のジレンマ


11回目となる今日の路地では、これまでより少し視点を引いて、俯瞰して見えてくる路地の一面について記述していけたらと思います。
今回紹介するのは墨田区京島の路地であり、下町としての風景が広がりとても魅力的な、個人的に卒業設計の敷地で取り扱った場所でもあります。

 





京島は木造密集市街地の典型的な場所であり、細い道がうねりながら続き、小さな町工場が連続し、長屋が所狭しと並んでいます。
写真は京島の路地です。ディープな路地が迷路の様に展開しており、1200mmもない道幅にゴミ箱や洗濯機や植栽などが雑多に配置されており、また各住居の玄関へのアプローチにもなっています。
観察者としての僕は、入っていいものか分からなかったのですが、「この路地のさらに奥はどうなっているのか」という気持ちに駆られ、引きずり込まれていきました。
しかしなぜこのようなディープな路地が発生し、今なお残っているのであろうか、今回の今日の路地はその生成過程を紹介できたらと思います。

東京大空襲の被害を免れた京島

長らく沼や池が多く分布し、金魚の養殖地として栄えていた京島が住宅地として形成されたのは関東大震災の直後からでした。深川や錦糸町の被災者達の住宅難に目をつけた大工が棟割長屋を多数建設し、それを人々に賃貸しました。つまり大工集団が地主から土地を借り受け、長屋経営を行ったのです。
それら大工衆が国家の政策の行き届く前に、震災のドサクサに紛れて急遽宅地造成を行った為、インフラの整備もほとんどなされず、古い農道の曲がりくねった道が今日も京島の骨格となっています。


農道が今なお街の骨格となっている

それは東京大空襲でこの地域一帯が被害をまぬがれたことも一つの原因ですが、複雑な権利•所有関係によってデベロッパーが開発しようにもまとまった土地を確保できず介入できないことにも起因しています。

京島に見られる複雑な所有•権利関係はまさに長屋の賃貸経営によって発生しました。土地を所有する地主、土地を借り家を貸す借地人、家を借り家賃を払う借家人という関係が今日まで続いています。

そのため、1970年台から度々行われてきたまちづくりによって木造住宅の不燃化が進むものの、こぢんまりとした鉄骨のマンションやコミュニティ住宅の建設にとどまっており、接道不良の危険区域の癌とも言える場所に未だ政策は行き届いてない状況にあります。現在の借地借家法では住まい手である借家人の意見が尊重される傾向にあるため、大多数の借家人の意見をまとめるのはかなり困難であります。


魅力的な路地の性質とも言える、「滲み出る」「染み出す」生活景の背後には、目には見えない「所有」「権利」の関係が存在しています。

京島の場合ではその「地主」「借地人」「借家人」というがんじがらめの関係が、火災危険区域、倒壊危険区域に指定されるような国家としては癌のような場所でありながらも、東京では希少な存在となったノスタルジー溢れる昭和の下町風景を保つことに寄与しているという、一種のパラドクスやジレンマの渦中にある路地だと言えます。



文責 伯耆原洋太



2013年3月26日火曜日

神楽坂フィールドワーク

神楽坂商店街マップ
13.03.20に神楽坂でのフィールドワークを行った。
神楽坂商店街は、外堀に沿った飯田橋駅付近の神楽坂下交差点から北西の方向に向かって全長約500m、神楽坂上交差点まで続いている。
左右には15の路地があり、特に入り組んだ石畳の路地には、休日にもなると多くの観光客が訪れている。
今回のフィールドワークでは、各路地に対して奥へと誘われるままに写真を撮り続けていった。そして、その集積を動画記録として残すこととした。
神楽坂の路地には様々な歴史的背景があり、文人も多く住んだ。
今後もこの場所のフィールドワークを進めていく中で、「路地の面的な意味」について考察していきたいともう。


文責:早田大高

2013年3月25日月曜日

第二回路地ゼミ 「時間」のグループ

路地と「時間」に関してディスカッションした結果を報告させていただきます。 「時間」のグループでは、路地を形成している「時間」を表象する要素や背景を抽出し分類しながら、それらの要素がいかに路地の全体像を決定付け得るのかを考察していきました。 

第二回路地ゼミ「時間」グループディスカッションボード

このディスカッションボードは500ほど収集した路地の写真の中から、超短期(一瞬、瞬間、偶発)、短期(2~3時間、一日)、中期(数日)、長期(10~20)、超長期(100)と大まかに範囲を区分した尺度によって、左に向かうほど長いレンジを内包する路地を並べたものです。



例えばこの写真では一匹の猫が路地に座っています。前回の路地ゼミで猫などの動物は本能的に自分の領域を求め裏に潜むとして路地的であるという話が上がりました。猫が座り、しばらくすると立ち去ります。ここに座りくつろぐ猫は路地における短期的要素であると言えます。 



この写真では子供が路地に落書きをしています。ここで路地は子供達の遊び場となり、その落書きは路地を構成する大きな要素となり、2~3日するとだんだん消えていきます。中期的な時間を帯びる要素として分類しました。 




この写真では左下の階段が切り欠かれている部分を抽出しました。 この階段が造成されたとき、住宅かもしくは塀が植木鉢の置かれている赤いエリアまで存在していたが、階段ができた後、立て替えや改築が行われたことによってこの空間が生まれたと考えられます。この階段の切り欠きや、誤差の生んだスペースが決定的にこの路地を性格付けていると思います。 立て替えや増改築の行われる10~20年の時性を帯びる要素として抽出しました。



この写真では下町の長屋風景の背後にスカイツリーが建っています。 スカイツリーの建設によって今後何十年何百年のスパンで大きく風景が激変するはずです。 ここではスカイツリーを超長期的な要素として抽出しています。


このようにそれぞれの要素が帯びる時間を分類してきましたが、自転車や生活道具など短期的要素と建て替え増改築跡など長期的要素が同時に存在し得ることもあります。またその路地は、例えば東京であれば関東大震災や戦後にかけて行われた都市計画、区画整備の履歴の上に在り、細分化と変遷のプロセスによって成り立っています。 
 今回のゼミでは明確な区分によって分類しましたが、路地における或る複雑性とは、短期•中期•長期を現す要素が重層し混在することから発生していると考えられました。

質疑応答では、様々な路地から一つずつ要素を抽出したために、時間軸として並べてはいるが、一貫する要素が存在していないので分かりにくいと言われました。 今後の進め方としては、今回のディスカッションの手法とは逆に、数ある路地の中から1つの路地を選定し、その路地の中に含まれる要素をスケッチ等によって徹底的に抽出し、その要素を時間軸で並べていくというプロセスをとっていくことで一貫性を獲得でき得ると考えます。
 また、一つの路地に入り込んで徹底的に要素を抽出していく姿勢と、長期的な時間を扱う上で、都市という大きなスケールの中における生成過程によって発生した一本の路地という、少し引いて眺める姿勢も「時間」を扱っていく上で重要なのではないかと感じました。 

最後に、これら時間を表象する要素があるから「ここは路地である」ということになるわけではないことを自覚しておかなくてはならないと思います。あくまでそれらの要素が「路地的である」という、ある一定の共通認識とどう関係を持っているかを考察し、掘り下げていかないといけません。
難しいトピックであることは重々承知ですが、今後の路地ゼミでより深く議論を交わしたいと思います。

文責:伯耆原洋太

2013年3月24日日曜日

第二回路地ゼミ 「ずれ」グループ

3月20日に行われた第二回路地ゼミでは3つのグループに分かれてそれぞれの考える「路地」に関するパラメーターをプレゼンテーションしました。今回は「ずれ」グループに関しての報告です。

「ずれ」グループでは、路地の発見者と生活者の認識の間にある「ずれ」に焦点を当て、路地について考察しています。




認識の「ずれ」による評価軸の提案
観察者と生活者による路地の見え方の違いというものに着目し、それが何を起因とするのか、という考察を行いました。ボードの上ほど両者の認識の差が大きく、下ほど一致していると考えられるもの、というようになっています。


この路地などは最上部に位置づけられたものです。生活者にとっては路地を構成している物干、植木鉢などはあくまでも物干、植木鉢であり、生活の中の物質のひとつとして見ているのに対して、観察者は場全体の雰囲気をまず捉え、他者の空間である場へ侵入しているという好奇心なのか、どこかで見たことのある風景としての魅力なのか、そういうものを感じ取っているのであり、そこにはこの場に対する両者の大きな認識の差があると考えられます。
 一方、こちらはこの場を「路地」として見せようという意図があり、観察者もその意図するところを素直に感じ取ることが出来るようなものではないかと考え、両者の間には認識の差はほとんどないと言えます。

そうして分類したときに、その路地が現れた年代、より短絡的に言うと建築物の築年数の順番になってしまう傾向がありました。しかしそれがその場を見た人がどれだけイメージを重ねられるか、という問題であるとすれば、観察者としての私たちの中にある都市のイメージ、路地のイメージが、時間を経たものの方が重ねるソースが増えよりはっきりしてくるということであり、また先生のお話でもあったように、空間、時間の問題として路地を認識していく必要があるということの表れでもあると思います。

また、観察者と生活者の認識に差があるほど、路地としてその場を観察者として発見した人の驚きは大きいのではないか。とすると、「ずれ」の認識の差を「路地」のひとつの評価軸として捉えることで、その差を埋める方向での展開、埋めないが何かをするという展開の両方がありうると考えました。


質疑応答では、上段、中段、下段、という風にあまりにも明確に分かれすぎているのでないか。下段の宿場町の写真などは、そもそも路地なのか。ズレが大きいものが生活の路地、小さいものがしつらえの路地というように感じられるが、ズレの大きいしつらえの路地、などがあり得るのか、など多くの質問が出ました。また、ズレがあるということは生活者と観察者の意思の疎通が不可能であるということなのではないかという疑問に対しては、そのズレこそが魅力なのであり、そこに対して何か働きかけることが出来ると考えています。しかし視点、認識という抽象的な問題であるため、これまで入江研究室で研究されてきた人間生活遺構論として具体的な展開に移行するのは簡単なことではないのは明らかであり、パラメーターとして曖昧なところが多くあるということがよくわかりました。 しかし路地に対する生活者の視点と観察者の視点という観点は、路地を認識の問題として捉えたときに重要な要素であり、これからも継続して議論していきたいと思います。


2013年3月22日金曜日

今日の路地・10 Concept learning meaningful.

Explicació gràfica del concepte de “路地”
representant l’estructura teòrica de la
ciutat des d’una visió Japonesa.

Graphical explanation of the "路地"
concept with a representation of the
Japanese vision a theoretical city structure.
Representació de l’estructura teòrica 
de la ciutat des d’una visió Catalana. 
Representation of the Catalan vision 
of a theoretical city structure.


Segons la teoria de David. P. AUSUBEL l’aprenentatge significatiu d’un concepte es basa en la capacitat de relacionar la nova informació amb algun element ja existent de l’estructura cognitiva de la persona. Aquests nous coneixements s’adquireixen de forma gradual, a diferents nivells de comprensió i de forma qualitativament diferent.

According to the theory of David. P. Ausubel, learning a meaningful concept is based on the ability to relate new information with elements of existing cognitive structures of the individual. This new knowledge is acquired gradually, at different levels of understanding and in a qualitatively different way.

Sovint la primera reacció per aprendre un nou concepte és la comparació amb un de similar. L’analisi d’ambdues imatges es pot fer per contrast o per convergència tot i que sempre tendim a buscar les diferències, és en trobar les semblànces quan acabem de fixar el concepte.

Often the first reaction to learning a new concept is to compare it to a similar one. Analysis of both images can be done to contrast or converge, although we tend to look for differences. Finding similarities helps to fix the concept.

“路地” o carrer són conceptes urbànistics d’origen històrico-cultural completament differents. Aquest fet també influeix en la seva morfologia i està directament relacionat amb la forma de la ciutat i el concepte de l’espai públic com es pot veure en la imatge superior. Tot i això durant el seminari sobre “路地” el treball ha estat més dirigit cap a la definició de les característiques sensorials d’aquest espai i aquestes si que poden coincidir amb el concepte de carrer.

"路地", or street, which have different historical and cultural origins are both urban concepts, but are completely different. This also affects their morphology which is directly related to the city shape and the concept of public space as you can see in the picture above. However, during the seminar on "Rojí", work was directed towards defining the sensory characteristics of that space which can be similar to the street concept.




Aquesta cançó escrita en 1970 parla dels sentiments de l’autor en la seva infància i adolescència en una Barcelona dels anys 40. Una Barcelona de post-guerra on en núclis urbans com Poble-sec  la gent vivia en comunitat com si es tractés d’un poble tot i ser ciutat.

This song was written in 1970 and speaks about the feelings of the author during his childhood and adolescence in Barcelona 40 years ago. In post-war Barcelona people lived in urban areas like Poble Sec as a village community, even though they were part of the city.

“El meu carrer” és un record d’infantesa i alhora és una descripció sensorial del món físic que el rodeja. Si no ens centrem exclusivament en les característiques dimensionals, la descripció física i ambiental del carrer on vivia l’autor ens pot transmetre la sensació de caminar per un “路地”. Tots dos espais urbans no estan estrictament planificats, són una succeció de fets, d’objectes quotidians i de textures diferents. Tot i no ser gaire lluminosos permetent la sosciabilització dels veins i el joc dels nens. Són espais de vida on s’acumulen plantes, bicicletes, cadires.... espais amb els que t’identifiques perquè vius, descobreixes i creixes.

"My Street" is a childhood memory and  also a sensory description of the physical world that surrounded him. If we do not focus exclusively on the dimensional characteristics and the environmental and physical street description of where he lived,  we can almost get the feeling of walking in a "Rojí." Neither urban area is strictly planned, they are simply a succession of facts, everyday objects and different textures. Despite not having much light they allow the socialisation of neighbours and childrens play is possible. They are living spaces with an accumulation of plants, bicycles, chairs .... spaces that you can identify with because you're living , discovering and growing.


撮影した場所:月島
Carrer de l’Aiguafreda, barri d’Horta (Barcelona)











Written by Marta Perez Franco, From barcelona


2013年3月21日木曜日

第二回路地ゼミ13.03.20議事録

第二回路地ゼミ風景
3月20日に第二回路地ゼミを開催しました。
出席者12名。前半、入江教授にも御出席いただき、路地ゼミの主旨についてお話いただきました。
当日の午前中には、神楽坂にて、神楽坂商店街を軸とした15の路地に対してのフィールドワークを行いました。この件についてはいずれ別のログで詳述します。
今回新たに各自が持ち寄った路地の写真についての発表を行い、それも含めた約500枚の路地の写真を用いて、いくつかのグループに分かれて、路地の分類・整理の仕方について議論しました。
ディスカッション風景
今回のゼミの中で根底にあったのは、「路地」とは近代以降の意識の変革の中ではじめて発見された「認識の方法」であり、現象としては中世や近世にも存在したが、それは私たちが現在認識している様な「路地」というものではなかったのではないか。そしてまた「路地」は、家父長制であったり権威主義的であったりする社会からはなれた、主権在民の社会における「認識の方法」であり、私たちはそれを収集し区分け、整理していくことに依ってはじめて無形の「路地」を発見する事が出来るのではないかということであった様に思います。
その前提において、今回わかれた3つのグループはそれぞれ、路地を形成する「時間」の問題、認識の「ずれ」の問題、前景としての「パラメーター」の問題に着目し、区分けを行い、発表しました。各グループのプレゼンテーションについては後ほど別のログで紹介します。
「時間」グループ発表
「時間」のグループは、それぞれの路地の中にある時間を抽出する事で、その帯時性の程度による分類を行いました。
「ずれ」グループ発表
「ずれ」のグループは、観察者と生活者の中にある認識のずれに焦点を当てて、その程度による分布と特徴を抽出する方法をとりました。
「パラメーター」グループ発表
 「パラメーター」のグループは、その路地の構成要素を言語化しようとする過程で、まず初歩的ないくつかのパラメーターによって整理する必要があるのではないかという事を発見しました。

いずれのグループいおいても、私たちが半ば感覚的に「路地」と呼んでいるものを、どのように認識し評価していくかといった問題を取り扱っており、今回見つけたテーマを深化していく中で、一人一人が各様のテーマで路地を論ずる事が出来るようになることがひとまずの目標である様に感じました。
また、バルセロナからの留学生のマルタの言った、抽象的なものと具象的なものを同時に議論した点が第一回のゼミにおいて優れていたことであり、その視点を忘れてはいけないということ。私たちはあくまで建築をデザインするものであり、その視点を忘れてはいけない、ということが最も印象に残りました。
今後も、こういった議論を通して、「路地」とはなにかといったことを追求していけたらと思います。

文責:早田 大高

2013年3月20日水曜日

今日の路地・9 暗色世界


今日紹介するのは、東秀紀氏による「荷風とル・コルビュジエのパリ」に登場する路地像です。
この本では、永井荷風とル・コルビュジエという、1908年3月のパリを同時に目撃した二人の芸術家の視点から都市が論じられています。両者ともにこのパリ訪問がその後の活動における思想の原点となったと同時に、全く正反対の理想都市を追い求めるようになるきっかけでもありました。



オーギュスト・ペレとの出会いを通し、「刺激的で、新しいものが始まろうとしている」パリを知ったル・コルビュジエ。彼にとってパリとは「あらゆる人と情報が集中し、展開する世界都市。古典と前衛の芸術が共存し、理性的な精神と感性的な情緒の交差する都」でした。一方でパリの路地つまり「ブールヴァール(表通り)の背後に隠れた裏通り」は、「彼が撲滅しなければならない、不衛生きわまりないスラム」だったのです。

彼は、大都市、特にその都心と表通りを愛した。(中略)他方で彼は、パリにやってきた頃住み着いた裏町には郷愁を覚えなかった。むしろ彼はそれを憎み、「ヴォワザン計画」では破壊し、中心に高速道路を持ち込み、土地の大半を緑地にして超高層ビルを林立させることを提案した。それはあのオスマンでさえ、思い及ばなかった大胆な計画であった。

一方で永井は、「一つの区域や建物にブルジョワジーから労働者まで雑多な人間が同居し、働く場と生活する場が混在した、コンパクトで高密度な都市空間」としてのパリに魅了されます。

「ふらんす物語」に収められた「雲」という短編で、荷風はパリには二つの世界があると書いている。その二つとは、「花、絹、繍取、香水」などによって創り出される「明色世界」と、「雑草、激流、青苔、土塊、砂礫」によって成り立つ「暗色世界」である。前者はシャンゼリゼ大通りや凱旋門などの繁華を彩る「花の都」の表面であり、後者はその裏側にある小路や空き地、墓地といった場所である。

狭い路地だが、人々の生活の匂いがふんぷんとし、古くからの記憶がこめられている街角。人々が生まれ、成長し、泣き、喜び、そしてひっそりと死んでいく場所。さまざまの痕跡と景観が、想像力をかきたて、物語を育んでいく小路。オスマンの改造の際に取り壊しを免れた、そういう「暗色世界」のパリこそが、住民たちにとって住みやすく、離れがたいものにしている、この都市の本質であり、文明の本質であり、文明の圧力や技術の発展を越えて、なおパリを生き続けさせていくものだ、と荷風は見て取ったのである。

これは、「無批判に近代化を推進する東京や、機械文明と実利志向のアメリカの諸都市に生活」したことで「文明のすさまじさに恐怖していた」永井の、オスマンにより新設されたブールヴァールに象徴される近代都市への違和感によるものでした。そして帰国後、永井はこのパリ体験を東京に敷衍したエッセイ「日和下駄 一名東京散策記」を発表し、江戸時代以来の風景に都市の理想像を見出します。

古いパリ、すなわち裏町に残る中世のパリと、市区改正で破壊されていく江戸の要素が、同じように近代以前の豊かで人間的な都市風景として、荷風の心の中で重なっていったのである。彼にこうした体験をもたせたのは、同じ年の、深川を訪れた体験によるものであった。(中略)ボードレール的空間をパリに探し求めた荷風にとって、深川の「衰残と零落とのいい尽し得ぬ純粋一致調和」は、まさに彼がパリの裏町において愛したものと呼応する風景であった。(中略)さらにそれは、近代化の中で、不安と憂鬱を含んだ彼個人の内面とも共鳴していったのである。

このように対照的な軌跡を描きながらも、晩年の二人の都市への視点は、やがてひとつの点へと歩み寄りつつありました。

最晩年のヴェネツィア病院にみられる空間は、それ自体は建築ではあるが、既存の都市への配慮を強く感じさせ、帝都復興事業の際に永井荷風が提案した「快活なる運河の都」と偶然にも一致している。(中略)「光」と「闇」を兼ね備えた都市をつくること。それが、かつてパリに触発された荷風が提案した東京の姿であり、終生パリにこだわり続けたル・コルビュジエが最後に残したスケッチであった。

(あとがきより)ロンシャン礼拝堂、ラ・トゥーレット修道院、そして未完のまま残されたヴェネツィアの病院プロジェクト―ル・コルビュジエは、これらによって彼が生涯をかけて取り組んできた近代建築・都市計画を、かつての機能や効率性優先とは異なった、精神的な方向に修正し、より高い次元で完結させようと決意していたのである。そしておそらく、変化の動機となったものは、第二次世界大戦の悲劇と、その末に彼を再び出迎えてくれたパリへの感動であったろう。疎開先から帰った時、彼と妻イヴォンヌを出迎えたのは、凱旋門やルーブル美術館、エッフェル塔などの象徴的建造物やブールヴァール沿いの美しい町並み、そしてカルチェ・ラタンの学生街や裏町、古い修道院に、なお人間的雰囲気のたちこめる、多様な魅力をもつパリの懐かしい姿だったからである。

この本の中で描かれる二人の思想の違いの背景に、路地ゼミで度々議論の的となる、日本人と西欧人の路地の捉え方の違いというものが存在していることは言うまでもなく、路地について考える上で極めて重要なトピックであることは間違いありません。しかしながらそれ以上に、二人の思想の軌跡が「明色世界」として築かれた近代都市の光と闇を我々に再認識させ、同時にその限界に対するアプローチとして路地のような「暗色世界」が持ち得る可能性を示唆していると解釈する事も出来るのではないでしょうか。抽象的なテーマではありますが、今後の路地ゼミを通し思考を深めていきたいと考えています。




今日の路地 「濹東綺譚」挿絵(1937

これは、晩年の永井が失われた裏町を求め、土地区画整理に取り残された玉ノ井地区へと通い詰め書いた「濹東綺譚」における、木村荘八氏による挿絵です。
「暗色世界」のなかに描かれた、今にも動き出しそうな、生き生きとした人々の姿が印象的です。



参考文献
東秀紀「荷風とル・コルビュジエのパリ」新潮社(1998/02

文責 津田光甫

2013年3月19日火曜日

今日の路地・8 『人間のための街路』


街路はエリアではなくヴォリュームである。街路は何も無い場所には存在し得ない。すなわち周囲の環境とは切り離すことができないのである。言い換えるなら、街路はそこに建ち並ぶ建物の同伴者に他ならない。街路は母体である。都市の部屋であり、豊かな土壌であり、また養育の場でもある。そしてその生存能力は、人びとのヒューマニティーに依存しているのとおなじくらい周囲の建築にも依存している。



路地ゼミが行われてから、何度か話の話題に上っていたバーナード・ルドルフスキーの『人間のための街路』の一節です。この本は「偉大な戸外空間、すなわち歩行者のための街路と、そしてそこで出会う人びとについて」書かれています。そして、
この本を未知の歩行者に捧げる
からこの本は始まっています。

では、具体的に街路が母体であるとする例をあげてみようと思います。今回は近々フィールドワークを行う予定である神楽坂を挙げてみることにします。
神楽坂は、ゼミの中で取り上げられた「しつらえの路地」と「生活の路地」のなかでは、しつらえの路地に入ります。神楽坂の街並みや街路は起伏在る地形の上に個性的に姿を現し、訪れる人にまちあるきの楽しさを提供しています。情緒豊かな名勝を持つ路地や坂は、時に蛇行し、時に階段を有します。直線的なものは少なく、神楽坂の背骨にあたる神楽坂通りも、わずかながらの角度で線形を変えています。そしてこの通りを歩くと、道の右側と左側の景観は異なり、上り・下りによっても表情が変わる。坂道は上りは視界の大半を両側の建物と路面がふさぎ、下る時には、場所により街路樹ごしに景色が遠くまで見通すことができます。そして路地の幅は、半間から一間(90-180cm)ほど、この狭い路地で人びとは道路では味わえなくなった気遣いや配慮を自然にこなしているのです。
神楽坂のまちの形成は中世以降に進み,江戸時代に現在のまちの骨格が出来上がりました。なので、現在の路地は中世時代のものと、明治以降に出来上がったものが混在しています。明治以降に出来た路地の形成過程は、料亭等の建物が新たに造られ、あるいは、いくつかが建て替えられると、それに面する路地が少しずつ変化していいきます。路地は、現在の道路のように一度つくられたら固定してしまうものではなく、少しずつ、延びたり、枝分かれしたり、時には消滅したりと姿を変えていたようです。
そう言った、その土地に住んでいる人びとの行いや振る舞いによって路地の形態が異なる時間軸とともに変化していく空間を、路地的空間と呼びたいと思います。



今日の路地 神楽坂熱海湯横丁

文責 百武けやき


2013年3月17日日曜日

今日の路地・7 「東京Y字路」


本日の路地ゼミのブログを執筆するにあたり、最初に浮かんだのは横尾忠則のY字路シリーズでした。ゼミで討論されている路地からは少々脱線しますが、私にとっての路地は横尾氏の絵に描かれるどこか殺伐とした路地にあると思い、本日の「今日の路地」は横尾氏の写真集「東京Y字路」の文を引用しつつ執筆させていただきます。



写真は横尾忠則の「東京Y字路」に掲載される目白のY字路です。路地ゼミでは、魅力的な「路地的空間」とは、奥へと誘う明暗の変化、不連続的な統一性を持った、人々の生活臭漂う空間と捉えられています。写真に映し出される路地は確かに上記のような条件を有していると思われますが、そこには路地特有のノスタルジックな温かみといったものを感じ難いです。寧ろ人を突き放すような冷たさすら感じられます。その理由として、背景が夜でありながら昼のような様子を覗かせている事と、全くの無人である事があげられます。

横尾忠則がY字路を描き始めたのは、故郷の西脇にあった模型屋の建つ三叉路を発端としています。横尾氏がある時この三叉路を訪れると模型屋は存在せず、それでもその場所を写真におさめました。あとでその写真を見直してみると、そこには見知らぬY字路があり横尾氏は「記憶の中の風景はそこにはなかった。その途端郷里に対するノスタルジーがぼくの中から消えて行くのを感じた」と述べ、「その時ぼくは「これだ」と思った。私意識から切り離された風景こそ絵の対象になるべきだと思った」と記しています。この時の感覚を基に横尾氏はY字路の連作絵画に着手し、「東京Y字路」の写真集に至ります。ここで「東京Y字路」内の椹木野衣の解説文を引用します。「横尾が(東京Y字路で)撮っているのはそのような瞬間なのだ。これは、横尾が西脇で最初に出会った「ノスタルジー」がかき消された状態、個人的な関心が見い出せず、記憶が消去されてしまった写真の有り様とも言えるだろう。西脇の模型店の時は偶然であったかもしれないが、本書に収められた写真のなかで横尾は、場所と時刻にかかわらず、「そのような瞬間」を克明に反復させている。」だからこそ、「東京Y字路」の写真に映し出される路地からは路地特有の温かみを感じ難い。寧ろ、感じさせないように横尾氏はY字路と路地を写真に収めたのだと思います。

「過去の写真はしばしばノスタルジーを保存する(あるいは生み出す)ものとしてあるけれども、この場合は逆である。むしろノスタルジーを消す装置として写真はあるのだ。反対に、Y字路の連作絵画において作者はノスタルジーを回復しているように思えなくもない。が、しかしそれは失われたノスタルジーを取り戻すことを意味していない。あえていえば、万人に共通のノスタルジーというか、そういうものを感じさせる(そんなものがあるとしたら、それこそ「普遍的な個」というものだろう。)」(椹木野衣の解説文より)横尾忠則のY字路の絵画における路地には、懐かしさを感じながらも殺伐とした冷たさを感じます。それは路地ゼミで討論されてきた、生活臭溢れるノスタルジックな路地的空間とは異なります。本日の「今日の路地」は、路地からはやや脱線した話題を取り扱いましたが、路地に対する対照的ともいえる視点を紹介する事で、今後の議論がより活性化されればと思います。

最後に、横尾忠則のY字路作品「暗夜光路N市-I」を掲載して筆を置きたいと思います。



参考文献:

『東京Y字路』/横尾忠則/国書刊行会 (2009/10/10)

文責:塩谷歩波

今日の路地・6 「猫町」


 以下は、萩原朔太郎による小説「猫町」の一節です。

 その日もやはり何時も通りに、ふだんの散歩区域を歩いていた。私の通る道筋は、いつも同じように決まっていた。だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。そしてすっかり道をまちがえ、方角を解らなくしてしまった。(中略) 余事はとにかく、私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑やかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった。(中略) 私は夢を見ているような気がした。それが現実の町ではなくって、幻燈の幕に映った、影絵の町のように思われた。だがその瞬間に、私の記憶と常識が回復した。気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである。(中略) 何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない。一瞬間の中に、すっかり印象が変ってしまった。そしてこの魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している。いつも町の南はずれにあるポストが、反対の入口である北に見えた。いつもは左側にある街路の町家が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった。
 その時私は、未知の錯覚した町の中で、或る商店の看板を眺めていた。その全く同じ看板の絵を、かつて何所かで見たことがあると思った。そして記憶が回復された一瞬時に、すべての方角が逆転した。すぐ今まで、左側にあった往来が右側になり、北に向って歩いた自分が、南に向って歩いていることを発見した。その瞬間、磁石の針がくるりと廻って、東西南北の空間地位が、すっかり逆に変ってしまった。同時に、すべての宇宙が変化し、現象する町の情趣が、全く別の物になってしまった。つまり前に見た不思議の町は、磁石を反対に裏返した、宇宙の逆空間に実在したのであった。

 劇中における主人公は、三半規管に疾患を持っており、方角を感知する能力が人より劣ると言う設定の青年です。通常の旅行に飽きた主人公は、薬物による副作用によって現実と夢の狭間を往来する「旅行」を繰り返していましたが、薬物服用をせずとも、同様の不思議な体験が出来ることをある日発見しました。普段見ていた近所の横丁ないし散歩区域が、突如として見覚えの無い、非常に魅力的な世界に見えた。その世界を、朔太郎は作中で「景色の裏側」と表現しています。
 特に疾患もなく、無論薬物も服用したことのない私も、同様の経験をしたことがあります。例えば、電車に乗っていて、居眠りしてしまったとき。電車は終点を折り返し、一度通過した駅に、今度は逆方向から接近する。そこで目を覚ました私は、自分がまるで知らない世界に放り込まれたと錯覚する。見知った駅名を掲げた看板や、電車の乗り降りの記憶が無いことから、間違いなく普段利用している路線にいる。が、窓から見える景色が、進行方向から考えてまるで異なる。私は時計を見ることで、漸く異常な時間が経過し、終点を折り返し目的地とは逆方向に向う電車に乗っていることを知覚することで、窓から見える世界が馴染みのものだと気付く。それまでの短い時間ですが、未知の世界に思えた景色は新鮮で魅力的に感じましたし、作中の言葉を借りれば、景色の裏側を旅行したような感覚を覚えました。

 魅力的な路地とは、例えば全体は均質に見えながら通過する方向によって全く異なる様相を呈したり、気候や時間帯によって絶えず変化する要素を持ち合わせていたりして、来訪者に何らかの感覚(時間、方向感覚など)を麻痺させ、稀にふっと見たことの無い景色を見せてくれる。曖昧なものと言うよりは明瞭なものの集合であるが、それらが絶えず流動し、位置関係や時節と言った偶然性を孕むことで、時として景色の裏側を見せる。そういうものではないでしょうか。

写真は、挿絵を担当されている金井田英津子氏による作品


文責:岩澤亮介

2013年3月14日木曜日

今日の路地・5 『見えない都市』


第一回のゼミの中で魅力的な「路地的空間」は、奥へと次の展開を予感させるようなカーブや起伏、ある種の記号が見えかくれし、人々の生活の堆積の様子が感じられるような空間であったと思います。今日は、それとは違う意味での魅力的な「路地的空間」について考えてみたいと思います。

そこでまず、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』から一節を抜きとってみたいと思います。

「年若い娘が一人、肩の上に寄せかけた日傘をまわし、またまるい腰の膨みすらもいくらかまわしながら、通りかかります。黒い服を着た女が一人通りますが、面紗のかげのおどおどとした目、震える唇といい、その様子はおのれの年齢をあますところなく示しております。刺青をした巨漢が通ります。白髪の若者、小人の女、珊瑚色の服を着た双子の姉妹も通ります。彼らのあいだを何ものかが走り抜け、見交わす彼らの眼差は、あたかも図形から図形を結ぶ直線のように走って、矢印やら星やら三角やらを描き出し、こうしてありとあらゆる組み合わせが一瞬のうちにできあがってしまいます。と、その間にまたほかの人々が登場して来るのでございます。豹を鎖につないでつれている盲、駝鳥の羽の扇をもった遊女、お小姓、女角力。こんなふうに、たまたま同じ廻廊に雨宿りして顔を合わせるとか、露天市の日除けの下にしゃがみこむとか、あるいは街角に立ちどまって楽隊の音に耳傾けるとかする人々のあいだでは、ただの一言も交わすことなく、指一本ふれ合うこともなく、ほとんど目をあげることさえもなしに、奇遇、誘惑、抱擁、大饗宴がくりひろげられるのでございます。」

この小説は、マルコ・ポーロがフビライ汗に自らが訪れた55の都市について、身ぶり手ぶりを交えながら物語っているものです。採りあげた一節は、「都市と交易」と題されて紹介されている都市クローエについてのものですが、ここではその都市の形態やそこにあるものの様子などに関しては全く語っていません。語っているものはひたすらマルコ・ポーロが通りで見かけた人々の様子についてだけです。彼にとっては、それが他の都市には決してないクローエだけの特別な都市の様相、例外だったのかもしれません。ひたすら人々の様子だけを述べているだけですが、何となくその通りや周辺の建物についてもイメージが及んできます。結果的に、その通りの人々があたかも風景になっているような、カルヴィーノの言葉を借りれば、人々が矢印やら星やら三角やらといった図形を描き出しているような感じもします。
これまでのところ魅力的な「路地的空間」というものは、冒頭で述べたようにその路地にある「もの」だけについて考えていました。しかしそこに「人々」が含まれることにより、さらに魅力的なものとなることがあるのではないかと思います。

ということで今日の路地は、映画「ブレードランナー」からデッカードが外へ逃げたゾーラの後を追って街の中を捜しまわるシーン。





文責 佐々木崇

2013年3月13日水曜日

今日の路地・4 広場と路地

第一回の路地ゼミにおいて、日本には広場はないが路地はあるということが話題にあがり、広場と路地を対比的なものとして扱いました。そこで今回はその広場と路地について考えてみたいと思います。

この広場と路地について考えるには、欧州と日本の村落の構成に着目する必要があります。欧州の小さな町を訪れるとたいてい町の真ん中には教会があります。その教会には塔があり、町のどこからでも見えます。そしてその教会の前に広場があるといる構成が多く見られます。それに対して、日本の村落というと、山の下を走る街道に沿って細長く集落は配置され、それに対して直角に道から奥まったところに樹木を背にした神社があります。下の絵がそれを端的に示しています(上、サン・ポールドヴァンス 下、江戸近郊八景之内池上晩鐘)。日本人には見えない位置に重要なものを存在させ、それに至るまでの道程を設定する「奥」に対する感覚が早くから芽生えていたと思われます。













このような日本人独特の自然観が発展して、微地形や微妙な屈折など「奥」を持った路地に文化が生まれたのではないでしょうか。 もちろん欧州にも路地はありますが、日本人が持つ路地に対する感覚と外国人が持つ路地に対する感覚は異なるように思います。今後、この路地ゼミを通して路地の空間の分析からその背後にある思想にまで発展して考察を深めていくことができると良いのではないかと考えています。

ということで今日の路地は東京都台東区、廿世紀浴場跡地近くの路地です。


参考文献:
『見えがくれする都市―江戸から東京へ』/槙文彦/鹿島出版会 (1980/6/20)
『日本の景観 ふるさとの原型』/樋口忠彦/ちくま学芸文庫 (1993/1/7)

文責:斎藤愼一

今日の路地・3 生活の路地

ある種の路地に迷い込んだ他所者は、間違って他人の家に入り込んだような印象を持つことがある。路地空間とはしばしば、近隣の住宅の生活がにじみだしてくる空間であるからである。その生理的な時間のレイヤーの背後には日常の営為が見え隠れする。路地に迷い込んだ他所者は異物として浮遊する。下にある写真は、東京都本郷の路地空間である。道と家の間に塀はなく、植木鉢や物干竿、生活用具がおかれ、近隣の人同士とみられる女性が二人で話こんでいる。


人 と人の距離の関係が書かれた『かくれた次元』の所説に従えば、路地空間では公衆距離をとることが困難で、知人同士の距離である社会距離が住宅の内部にまで 侵入してしまう。路地に入った他所者は、他人の領域に入り込み、その素性を知ってしまったような危うさが好奇心となって先へ進みたくなるのではないか。

現代に生きる我々にとっては、こういった路地を「魅力的」と捉えることが良くある。現代都市において、個人の領域というようなものは、追いやられ、見えない 場所に隠されている。“他人”の個人の領域が珍しくなり、群衆の中で生きる現代人にとって、そういった個人の領域が垣間みられる路地空間とは、魅力的に映るであろう。「ALWAYS 三丁目の夕日」等の映画に見られるノスタルジックな路地は、小規模な共同体の生活景が魅力的に描かれている。

しかし、そのような路地空間が昔から他所者にとって魅力的であったかは疑問が残る。個人の領域が追いやられた現代でこそ魅力的であって、それ以前の日本では むしろ他所者にとっては入っていくことを躊躇するような空間であったのではないか。『見えがくれする都市』では、『都市の日本人』という本の引用がなさ れ、昭和26年頃の路地空間の印象を物語っている。「自分たちの近くの隣人は『親戚よりもっと親しい』といっている(中略)隣人たちは、種々様々の方法で 互いに助け合う。だれかが家をあけるときには、他のものが留守番を買って出る。下山町の人びとは心から隣人を信頼しているが、外界のひとには大きな不信の念をいだいている。」とし、「外来者は拒否的な視線に出会い、不審なものには用を問いただす。」としている。都市の中に個人の領域が生きていた時代は、他所者は意識的にそういった空間に足を踏み入れることを忌避していたのではないだろうか。

文責 松岡 啓太

2013年3月12日火曜日

今日の路地・2 イメージマップ

「路地」という言葉の定義が第1回路地ゼミで話題に上りました。路地(ろじ)は単刀直入に言うと「家と家のスキマ」ですが、どうやら京都では少し意味合いが異なり、発音も「ろーじ」となるようです。実は「ろーじ」と発音したことなどない私ですが、今回は京都出身者として京都の「ろーじ」を取り上げます。

これは甲斐扶佐義さんの写真集「京都の子どもたち」の中のいくつかある小見出しのページのひとつです。「狸橋・幸小路 イメージマップ」とされていて、かつて甲斐邸があった場所、お気に入りの狸橋を始めとして、安い変わった魚を売る店、ドンペリ1本30万のバー、などたくさんのメモが書かれています。

甲斐さんは岡林信康、中川五郎、浅川マキなどがライブをしたり、吉田拓郎や下田逸郎が顏を出し1970年代関西フォークの名所となった「ほんやら洞」という喫茶店の店主です。

甲斐さんは喫茶店の経営とは別に、 京都の町や人の写真を長年撮影しています。「京都の子どもたち」は甲斐さんが1975年から2003年までに撮りためた子どもたちの写真が、撮影した場所と一言メモとともにまとめられたものです。
甲斐さんの中にある京都のイメージマップはそこでの生活を感じさせる、「生活の路地」を強く感じさせるものとなっています。

「生活の路地」「しつらえの路地」というキーワードがゼミでは度々出てきました。またそれは第三者的な視点を意識しているかどうかというような言葉にも変換されてきましたが、甲斐さんのイメージマップや子どもたちの写真の遊び場や背景となっている路地は撮影者の生活の一部分であり、そしてある意味ではイメージマップはこのあたりで生活している人皆の共通認識を表しているように思います。来訪者によるその路地のイメージは現代ではノスタルジーに偏るところが大いにあると思いますが、そこに住む人にとっては自分の領域、生活の場を拡張してくれる役割を持つものです。京都と言えば、というイメージとは少し違うかもしれませんが、本当の「ろーじ」はこういうものではないかと思います。

最後に「京都の子どもたち」から一枚。
路地 新門前切通付近 1993


文責 吉川由

2013年3月11日月曜日

第一回路地ゼミ13.03.09議事録

第一回路地ゼミ風景
 3月9日に、第一回の路地研究ゼミナールを開催しました。各自が持ち寄った路地の写真(路地的なものとしての絵画等も含む)について、それをなぜ路地だと思うか、魅力的な路地の条件は何か、個人的な路地体験などをふまえて、集まった路地の群をどのように分類出来るかを議論していきました。
その日の議論の一応の結論として、生活に直結したもの(living)と商業的なもの(commercial)、意識的にしつらえられたもの(performance)と無意識的に集積したもの(unconscious)というパラメータによって分布をつくって見る事としました。
商業と生活、意識と無意識によって分類したダイアグラム

路地的であるもの 分類後の残り
議論をしていく中で、路地的でないかもしれないとされたもの

しかし、この分類によって、路地的空間のすべてが整理されるわけでもなく、こういったスタディーを何通りも重ねて行く事で、今後「路地的空間」と呼んでいる意味を明確にしていく必要があると思います。

マルタ・モデル 今後の分類の可能性として
また、今回のゼミにおいて大いに争点となった、路地に対するそれを取り巻く建物の中で生活する人たちの関心の度合いによって、路地は魅力的にも暴力的にもなりうるという事。路地的空間を構成している視覚的な要素としての奥性(明暗やカーブ、シンボル等の奥へ導くもの)や集積性の評価の仕方。絵画のなかにある路地性をどのように言語化出来るか。それぞれの路地の文化的背景との関連性。そういったことも含めて、次回のゼミの中で議論していければと考えています。

次回は、3/20(水)15:00〜 於:目白分室 を予定しています。
一人3〜5枚程度、路地の写真データを持ってきてもらい、それを簡単に説明した後、いくつかのグループに分かれてこれらの路地に対してどういったグルーピングや分類が可能かについて議論してもらい、それを各グループ発表していくという形式をとりたいと思います。よろしくお願いします。

参考文献
『人間のための街路』/B・ルドフスキー/鹿島出版会 (1973/7/15)
『アメリカ大都市の死と生』/J・ジェイコブス/鹿島出版会 (1977/01)
『見えがくれする都市―江戸から東京へ』/槙文彦/鹿島出版会 (1980/6/20)
『見えない都市』/イタロ・カルビーニョ/河出書房新社 (2003/07)
『マニエリスムと近代建築』/コーリン・ロウ/彰国社 (1981/10)


パネル1

パネル2
パネル3
パネル4
パネル5
以下、当日の議事録の一部です。