2013年8月26日月曜日

無意識について

意識的なもの、無意識的なものについて多木浩二は「生きられた家」においてT.E.ホールのことばを次のように引用している。

「日常、働き休み行動する人間の自己は、行動の型の集合体であり、…….一部は本人によって知覚されているが、それ以外の部分は本人からは分裂していて、本人以外には明らかであっても、本人自身は目かくしされている。」

家において我々は食事をし、睡眠をとり、テレビを見て、家事をする。これらの行為を点でつないだものが生活であると考えたとしても、家をこれらの行為に還元することは家を道具的機能の集積ととらえることになる。それに対し、多木は、

「かりに家が住む道具であるとしてもそれは個別の道具の和ではない。物と物の空白、行為の概念のあいだには私たちの意識と無意識が途方もない空間と時間を広げているものである。……家という意味表現(シニフィアン)は、いわば言語として構成されている無意識である。謎めいて見えるのは、そのひとつひとつを住み手がその内面において意識化されたものを表現したものではなく、住み手の意識の外にあるからで、この物(家)のことば(意味表現)から、かれの欲動や期待を読みとるには、間接的な方法によらねばなるまい。そこにはすでに……置換や圧縮という機構が働いているからこそ、家が住み手の意識をこえ無意識の深みに結びつくことばとして成り立つわけである。このような意味では家はつねにメタファーである。」

と述べている。つまり家には住み手が決して意識的には語らぬ無意識的な側面が存在し、それらは恣意的で非論理的である。そうであるからこそ家は、意識の外にあり、直接見ることができない広大な世界を結びつけるメタファーとして存在することができるのである。

ここで、ゼミでもたびたび登場した、しつらえの路地とは反対の生活の路地について考える。ここでいう路地とは、その路地に面する各々の家から溢れ出た生活が混在するものであり、それは言わばさまざまな住み手の無意識の集積である。こういった路地が一見捉えどころがなく、読み取りづらいのは恣意的で非論理的な「無意識」が介在するからではないだろうか。我々が、こういった路地に魅力を感じ、惹き付けられるのは、その空間が近代の計画理論を超えたまさに多木のいう「生きられる空間」だからであると考える。

一方で、家に住まう住み手の無意識が路地に滲み出るというようなことを一様にいうことにも危うさを感じている。バシュラールが「片隅の空間」について「われわれが身をひそめ、からだをひそめていたいとねがう一切の奥まった片隅の空間は、想像力にとってはひとつの孤独であり、すなわち部屋の胚珠、家の胚珠である」というように、彼にとって家は閉じた内密の世界をもち、そのなかに記憶と夢をかくまうものであった。多木はこれに対し、日本の家は物質の厚みに欠け、襖や障子では片隅という感覚は起こせないと述べている。つまり、ここには日本と西洋の違いや、境界に関する問題が含まれている。今後のゼミでこのような点も議論できると良いのではないだろうか。



















(写真)月島の路地

文責:斎藤愼一