2013年10月2日水曜日

ビブリオバトルNo.1 「生きられた家 経験と象徴」


計画することができない路地について設計者である私たちが学ぶ意味はどこにあるのか。その手掛かりになるものとしてこの『生きられた家 経験と象徴』という本を手にとってみた。


著者は美術・写真評論家の多木浩二で、1976年の初版の発表後に何度か改訂がされている。内容としては「生きられる」ことについて家を題材とし、時間、境界、空間の図式など様々なキーワードとともに考察をしている。


まず生きられた家とはなにかということだが、著者は「そこに住む主体の経験に同化され、主体を同化した複雑な織物(テキスト)」と説明している。それは計画できるものではない経験の空間にあたえる質が形成される。そして「家」は住み手が意識的には語るぬ側面まで含めて表すようになるのである。つまり住み手の意識をこえ無意識的な側面をも含むことから家は恣意的で非論理的で解読しにくいものとなるのである。


次に多木は建築家の作品と生きられた家を区別すると説明している。建築家の作品は、わかりやすく言えば建築雑誌に掲載されているあの状態を指しており、現実に生きられた時間の結果ではないのである。そもそもこの本は生きられた家をどうしたらデザインできるかということを説明する本ではなく、実際1976年に初版が出版された時、多くの建築家は戸惑いを覚えたという。しかし建築家に対し示唆を与えていると思われる箇所として「…人間が本質を実現する「場所」をあらかじめつくりだす意思にこそ建築家の存在意義を認めなければならない」と述べている。また多木は家を行為を点で結んだ結果と捉えるのではなく、物と物の空白、行為の概念の間に住み手の無意識が蓄積するという。つまり建築家にできることとは、住み手の無意識が蓄積する受容力をもつ余白を家に持たせる意識を持つことであるのではないだろうか。


ここで路地について考えてみる。路地とは計画者の存在しないものであり、建築のいう計画物の隙間であることから物理的な余白であると同時に、通行ということ以外に特定の縛られた機能をもたないという意味で機能的にみても余白であると捉えることができるだろう。そこに無意識が蓄積されていくことで路地は生きられた空間となるポテンシャルをもつと考えられる。そして生きられた空間という概念から考えられる路地的なものとは、余白に蓄積する「無意識」であるのではないだろうか。その路地で現象している無意識を学び取ることが私たちが設計者として路地を学ぶ意味につながるのではないだろうか。


議論

早田:余白とはなんなのか。建物の隙間だから路地が余白であると捉えることと、生きられた家における余白とは単純に結びつけられることなのか。

斎藤:多木がメタボリズムを否定的に扱ったのは時間というものを予定調和的に扱ったからで、経験を通した時間に対する視点に欠けていた。つまり時間に対する余白も考えられる。

津田:計画するということの定義はなんなのか。生きられた家であろうとなんであろうと、建築をつくることは計画をするということであり、その意味の幅を考えることが設計につながるのではないか。

吉川:路地的なものを無意識と言い切ってしまえるのか。意識的なものであっても住み手を表していると思う。

早田:無意識を学び取ることは容易ではないのではないか。


今後、路地ゼミをまとめていくにあたって、ビブリオバトルを継続していくことで既往研究の整理を行い、また様々な文献で得られた路地に対する解釈を自分たちが今までに作成した路地に対する認識の方法(パラメーター、イメージマップ等)にフィードバックしていくことでそれらをビルドアップしていければという方針をたてました。


文責:斎藤愼一