ある種の路地に迷い込んだ他所者は、間違って他人の家に入り込んだような印象を持つことがある。路地空間とはしばしば、近隣の住宅の生活がにじみだしてくる空間であるからである。その生理的な時間のレイヤーの背後には日常の営為が見え隠れする。路地に迷い込んだ他所者は異物として浮遊する。下にある写真は、東京都本郷の路地空間である。道と家の間に塀はなく、植木鉢や物干竿、生活用具がおかれ、近隣の人同士とみられる女性が二人で話こんでいる。
人
と人の距離の関係が書かれた『かくれた次元』の所説に従えば、
路地空間では公衆距離をとることが困難で、知人同士の距離である社会距離が住宅の内部にまで
侵入してしまう。路地に入った他所者は、他人の領域に入り込み、その素性を知ってしまったような危うさが好奇心となって先へ進みたくなるのではないか。
現代に生きる我々にとっては、こういった路地を「魅力的」と捉えることが良くある。現代都市において、個人の領域というようなものは、追いやられ、見えない
場所に隠されている。“他人”の個人の領域が珍しくなり、群衆の中で生きる現代人にとって、そういった個人の領域が垣間みられる路地空間とは、魅力的に映るであろう。「ALWAYS 三丁目の夕日」等の映画に見られるノスタルジックな路地は、小規模な共同体の生活景が魅力的に描かれている。
しかし、そのような路地空間が昔から他所者にとって魅力的であったかは疑問が残る。個人の領域が追いやられた現代でこそ魅力的であって、それ以前の日本では
むしろ他所者にとっては入っていくことを躊躇するような空間であったのではないか。『見えがくれする都市』では、『都市の日本人』という本の引用がなさ
れ、昭和26年頃の路地空間の印象を物語っている。「自分たちの近くの隣人は『親戚よりもっと親しい』といっている(中略)隣人たちは、種々様々の方法で
互いに助け合う。だれかが家をあけるときには、他のものが留守番を買って出る。下山町の人びとは心から隣人を信頼しているが、外界のひとには大きな不信の念をいだいている。」とし、「外来者は拒否的な視線に出会い、不審なものには用を問いただす。」としている。都市の中に個人の領域が生きていた時代は、他所者は意識的にそういった空間に足を踏み入れることを忌避していたのではないだろうか。
文責 松岡 啓太
「路地に入った他所者は、他人の領域に入り込み、その素性を知ってしまったような危うさが好奇心となって先へ進みたくなるのではないか。」
返信削除そのことは、江戸川乱歩が『屋根裏の散歩者』で描いた様な、ポーが『群集の人』で描いた様な、ある種の病的な性質である様に思います。そしてそれは近代以降という社会の中で、ある種の市民権を得て来たことは確かだと思います。
また、村八分の様な封建社会的な共同体のあり方と路地は密接な関係性があることも確かだと思います。
しかし、表現者であり製作者でもある私たちにとって、そういったシニシズムを押し通していくことは、一種の芸術表現に陥らざるを得ない様な、そんな危うさを含んでいる様な気がしてなりません。この路地ゼミを考究していくにあたって、そういったことの自覚を迫られていくような気がします。
早田
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