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2013年8月26日月曜日

無意識について

意識的なもの、無意識的なものについて多木浩二は「生きられた家」においてT.E.ホールのことばを次のように引用している。

「日常、働き休み行動する人間の自己は、行動の型の集合体であり、…….一部は本人によって知覚されているが、それ以外の部分は本人からは分裂していて、本人以外には明らかであっても、本人自身は目かくしされている。」

家において我々は食事をし、睡眠をとり、テレビを見て、家事をする。これらの行為を点でつないだものが生活であると考えたとしても、家をこれらの行為に還元することは家を道具的機能の集積ととらえることになる。それに対し、多木は、

「かりに家が住む道具であるとしてもそれは個別の道具の和ではない。物と物の空白、行為の概念のあいだには私たちの意識と無意識が途方もない空間と時間を広げているものである。……家という意味表現(シニフィアン)は、いわば言語として構成されている無意識である。謎めいて見えるのは、そのひとつひとつを住み手がその内面において意識化されたものを表現したものではなく、住み手の意識の外にあるからで、この物(家)のことば(意味表現)から、かれの欲動や期待を読みとるには、間接的な方法によらねばなるまい。そこにはすでに……置換や圧縮という機構が働いているからこそ、家が住み手の意識をこえ無意識の深みに結びつくことばとして成り立つわけである。このような意味では家はつねにメタファーである。」

と述べている。つまり家には住み手が決して意識的には語らぬ無意識的な側面が存在し、それらは恣意的で非論理的である。そうであるからこそ家は、意識の外にあり、直接見ることができない広大な世界を結びつけるメタファーとして存在することができるのである。

ここで、ゼミでもたびたび登場した、しつらえの路地とは反対の生活の路地について考える。ここでいう路地とは、その路地に面する各々の家から溢れ出た生活が混在するものであり、それは言わばさまざまな住み手の無意識の集積である。こういった路地が一見捉えどころがなく、読み取りづらいのは恣意的で非論理的な「無意識」が介在するからではないだろうか。我々が、こういった路地に魅力を感じ、惹き付けられるのは、その空間が近代の計画理論を超えたまさに多木のいう「生きられる空間」だからであると考える。

一方で、家に住まう住み手の無意識が路地に滲み出るというようなことを一様にいうことにも危うさを感じている。バシュラールが「片隅の空間」について「われわれが身をひそめ、からだをひそめていたいとねがう一切の奥まった片隅の空間は、想像力にとってはひとつの孤独であり、すなわち部屋の胚珠、家の胚珠である」というように、彼にとって家は閉じた内密の世界をもち、そのなかに記憶と夢をかくまうものであった。多木はこれに対し、日本の家は物質の厚みに欠け、襖や障子では片隅という感覚は起こせないと述べている。つまり、ここには日本と西洋の違いや、境界に関する問題が含まれている。今後のゼミでこのような点も議論できると良いのではないだろうか。



















(写真)月島の路地

文責:斎藤愼一

2013年7月18日木曜日

今日の路地・スカンノ


今回の今日の路地は、イタリア半島のなかばからやや南の山あいにあり、いまでは人口二千人ばかりの小さな町スカンノ(Scanno)の路地です。画家マウリッツ・エッシャー、写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン、また特に写真家マリオ・ジャコメッリの眼から見たスカンノという町をみてみることによって、“路地的なもの”と今まで議論されてきた曖昧なイメージに対し、より具体性を持った話が出来ればと思います。

・エッシャーのスカンノ


Escher, Scanno, 1930
同じ構図から見たスカンノ

画家マウリッツ・エッシャーは1930年にスカンノの絵を描いています。エッシャーは1920年代後半から30年代前半にローマに住んでおり、イタリア各地を旅行しては風景画を多く描いていました。この絵はその時の一連の作品の中の一つで、二人の人間が戸口に座っている風景が描かれています。







・カルティエ=ブレッソンのスカンノ

Henri Cartier-Bresson, Scanno, 1953
Henri Cartier-Bresson, Scanno
Henri Cartier-Bresson, Scanno



アンリ・カルティエ=ブレッソンは、1950年代にスカンノの土地を訪れて作品を残しています。下にあるマリオ・ジャコメッリの写真とほぼ同じ構図の写真を撮っており、彼に大きな影響を与えたのではないかと推測することが出来ると思います。



・マリオ・ジャコメッリのスカンノ


mario giacomelli, Scanno, 1957
mario giacomelli, Scanno, 1959


mario giacomelli, Scanno, 1957

mario giacomelli, Scanno, 1957


ジャコメッリは1957年と1959年に二度スカンノを訪れています。ジャコメッリは初めてスカンノを眼にした時の感動をこう伝えています。

「スカンノは、陽光にあふれ、そこここに黒い小さな人影があって、私におとぎの国の印象を与えた。まさにドキュメンタリーを思わせるもののいっさいが消えてしまうように、ディテールを白くとばそうとし、それによってそこに、より詩が見出せると考えたのだ。私はリアリズムをスカンノや、もしくはほかの土地でもなく、たとえ特別でも何でもないとしても、その時の私の心の状態を再現してくれるようなものごとについて追求しようとした。リアリズムは、優れたものであればとても好きだし、自分でもしっかりと手応えを感じるが、写真を撮る時にはこれから自分がしようとしているのがリアリズムなのか、シュールリアリスムなのか等々、といったことはまったく考えず、ただ自分が感じているものを出そうとしているだけだ。」(『MARIO GIACOMELLI 白と黒の往還の果てに』アレッサンドラ・マウロ編 2013年)

さらに、多木浩二はジャコメッリのスカンノに関するエッセイでこのように述べています。

「ジャコメッリの思い出によると、彼は最初に訪れたとき、友人の写真家レンツオ・トルネッリの車ではじめてスカンノを眼にした。その光景にすっかり興奮したジャコメッリは、まだ走っている車から飛び降り、10メートルくらいころがって膝を擦りむきながら撮影したという。」(『表象の多面体』多木浩二著 2009年)

「斜面に犇めく家々、高さの違いからいたるところに必要な階段、途中の小さなテラス、公園か広場あるいはメインストリートと呼んでもいいのかもしれない石畳の空間。そんなところを牛や鶏が歩き回っている。教会の数は多い。彼はスカンノの町を説明しようとしているのではないが、それでいて彼の写真からわれわれは、この町についての大まかな情報をえていることになる。けっして大きなパースペクティブには開かれることのないスカンノの空間の変化が絶えず感じられるのだ。」(
『表象の多面体』多木浩二著)

以上が、三人の芸術家がスカンノという町を表現していた概略ですが、ここで多木浩二や辺見庸のジャコメッリのスカンノに関する批評をみていくことで、“路地的なもの”に関する手がかりを見つけていきたいと思います。



「ジャコメッリは現実からは失われた古い記憶に巡り会っていたのだ。彼にはスカンノの町はいまでも神話に生きているように見えたのであろう。だが文化をつくってきた人類は、どこかに記憶をたくわえることもなく生きているはずはない。ジャコメッリはつねにそう思ってきた。だからスカンノを見たとき、そのように古い記憶に巡り会ったように思えたのである。現在を生きることにのみかまけているわれわれは、ジャコメッリの写真に触れて記憶の古層に引き込まれ、同時にその記憶を現実の生活のなかに引き出そうと考えるようになればいいのである。」(
『表象の多面体』多木浩二著)

「古い村ときけば、まずは風俗や文化を研究しなければならないと考えるわれわれの紋切り型の発想に反して、スカンノの風俗や地域文化を撮るという問題意識をジャコメッリはいっさいもたなかった。かれはこの村を端的に〈異界〉と見たのである。・・・・・「スカンノの少年」に代表される〈異界〉の映像は、〈資本〉に食いつくされる以前に人間がもっていたであろう豊かなイマジネーションを回復するための手がかりでもある。われわれが生まれる以前の〈記憶〉をたぐりよせて、記憶の始原について考えたり、時間とはなにか、人の一生というのはなんなのかということを、浅薄な倫理を超えてあなぐるための映像的な手がかりをジャコメッリは提出している。・・・・ジャコメッリの内面の異空間と見る者の内面の異空間とが、ある〈記憶〉を共有しているところから、見る者にもジャコメッリのとらえた〈異界〉が遠い世界のものとはおもわれず、夢で見たことがあるような感覚(デジャーヴュ)にとらわれるからなのである。ジャコメッリと私たちは冥界を共有しているといってもよい。おそらく、われわれの遠い祖先たちの時代には、〈現〉のなかに〈異界〉が自然に入りこみ、たがいに仲よく親しんでいた時代があったのである。そしてそのかすかな〈記憶〉から、いまわれわれは、〈異界〉や冥界が身近にあるような風景を意識下で欲しているのであろう。「スカンノの少年」の映像は、そんな〈記憶〉を呼びさますことで、イマジネーションを回復するためのたしかな手がかりとなったのである。」(『私とジャコメッリ 〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて』辺見庸著 2009年)


ここに出てきた“記憶の古層”や“異界”という言葉は、ジャコメッリのほかの二人にも、程度の違いはあるにせよ、または自覚的であったかそうでなかったかはあるにせよ、当てはまる言葉ではないかと思います。また、“路地的であるもの”にも関係してくるのではないでしょうか。

三人の芸術家がスカンノの町を見て、彼らの“記憶の古層”に巡り会い、さらに彼らの表現したものを見て、私たちは自分の”内面の異空間”にある〈記憶〉を共有する。そのことこそ、私たちが“路地的なもの”と感じる所以ではないかと考えています。

さらに、自分の言葉でまだまだ言語化できていませんが、先日のゼミで議論になった“内空間”へとつながる話であるのではないでしょうか。今後、こういった議論をできればと思っています。





文責 松岡 啓太

2013年7月6日土曜日

言語について



東京において未熟なタクシーの運転手に行き先を伝える際、私達は小さな路地の名前を口に出さない。仮にその小さな路地が私達の口から言語として生じた際、その路地は既に共通認識のある魅力的な場所として命名されており、経済的利潤の中に空間化していることが多い。

一方、言語として街路・路地に新たな情報を付加することは、歩行者に対して純粋で感覚的な印象を呼び起こし、その印象は目の前に広がる路地の物理的な印象と相互浸透・二重化することで想起可能なイメージを増幅させることが可能である。

この実質的な路地の言語性と感覚的な路地の言語性の間に潜在する関係性は一体何なのかということに現在における路地の経済利潤的な新規性を期待している。

渋谷の「公園通り」や「スペイン坂」の命名は西武による街のイメージを喚起するためのマーケティングであり、新宿都庁の第一本庁舎と第二本庁舎の間を通る道路には「ふれあい通り」と命名された高層ビルに挟まれ立体交差する四車線道路が存在している。
街路・路地の命名は様々な組織の利害関係が混ざり合った上で都市に配置されるが、その街路や路地を歩きその場所や空間の印象として感覚的に想起してゆくのは私達本人である。

「街路名にひそむ感覚性。それは普通の市民にとってどうにか感じとれる唯一の感覚性である」
ヴァルター・ベンヤミン著『パサージュ論』断片群P「パリの街路」より

そのような現代の有り様の中で前回、現代の路地を知覚するのは近代以降の教育を受け、ある程度の固定観念を必然的に持ってしまった私達本人であるという視点から、私達の路地に対するノスタルジーを含む感覚は近代以降の知的思潮の影響からも派生してきており、ベンヤミンの生きた複製技術の芸術時代を初めとする様々な思考、都市に対する陶酔経験は日本の路地の文脈とも本質的に繋がっているという視点を持った上で路地を考察した。

この路地に関する議論の中で私はこの側面を継続し、路地から受ける人間の感覚性と実質的な経済利潤関係の絡まり合いから現代への可能性を考察していきたい。




文責:赤池一仁

2013年7月5日金曜日

「時間」と路地1 「経験」から成る空間について



第二期路地ゼミ始動に当たって、この路地ブログの「今日の路地」のコーナーが各々関心のあるテーマで定期的に更新していく連載形式へと変わりました。

 これまで行われてきた路地ゼミの中で自分が一貫して考えてきた事は、路地における「時間」についてです。第二回の路地ゼミでは、路地における時間要素を「短期」的要素、「中期」的要素、「長期」的要素の3つに分類することによって、その時間要素と路地の認識のされかたがどのような繋がりをもっているかを考察しました。(http://irielabrs2013.blogspot.jp/2013/03/blog-post_25.html)
 継続して第三回の路地ゼミでは、「時間」という包括的すぎる言葉を路地的な言語に変換し「可変度」というパラメータによる認識の方法を提案しました。「可変度」は時間の長さに対してどのくらいの変化がその路地に発生したかという尺度です。しかしこの二回のゼミで行った内容やボードは本質的な認識の方法としての意味合いを持つに至らなかったと考えています。(http://irielabrs2013.blogspot.jp/2013/04/blog-post_12.html)
 というのは路地、または空間に「時間」を落とし込むには自らの「経験」や「体験」による身体運動を通さない限り発生し得ないと考えるからです。路地の写真、画像によって要素を抽出する作業では経験を通す事ができません。自分でやっといて無責任な発言ですが、「時間」を推し進める上で適切な方法では無かったとも思います。

 ならばどうすれば「時間」を含んだ路地の評価が可能になるのか。言い換えると、路地自体、路地全体というものをどうやったら評価できるか、捉えることができるか。そして、それを伝えることができるか。ということに要点を絞ることができると思います。
 このことは路地だけでなく、建築にも及ぶ命題のように思います。建築雑誌に乗っている内観写真、外観写真、また1/200ほどの平面図によって僕たちはその建築を評価しようとしてるわけです。人がいない、電化製品やティシュペーパーもない、網戸も取り外された撮影用カスタマイズ建築を評価してるわけになります。
 あくまで写真というツールが手軽で、わかりやすく、伝わりやすい(伝えやすい)表現であるから用いている、ということに自覚的でなくてはならないと思うわけです。


 これから僕が執筆していく「時間」に関しての一連の考察が、これからの路地ゼミの認識の方法の深化への補助となることを目標に書き進めていきたいと思います。
第一回目の今回は路地における「時間」ではなく、もう少し根本的な、「経験」を通した空間体験に関して記述します。

まずはじめに、本研究室の「内と外の空間論序説」等で度々参照される、D.Freyの「比較芸術学」の冒頭に記述された一説を引用したいと思います。

「凡ゆる造形芸術は身体表現の至る空間表現である。それは、一面では固有の身体感情、筋肉及び運動感情、抵抗や手探りの感情、重さや量の感じなとによって規定され、他面では我々をとりまき、我々がその中で動き回ることができ、その中に入り込むことができ、我々の運動に目標を与え制約を設けるものと言った、主体的な運動空間としてのこの世界についての体験の仕方によって規定せられている。」

ここでは、身体感覚と結びついた全ての知覚を通してこそ「空間」を認識できるという一面と、動き回る、入り込むなどの運動によって体験せられたものが「空間」となるという一面を説明しています。
つまり空間を規定するのは「主体的なあらゆる知覚」と「体験の仕方」であるということと思います。
続けて、

「全ての建築芸術は目標と進路という二つの契機を媒介とくる空間形成である。民家だろうと神殿だろうと、すべて建物というものは構築的に形成された進路である。即ちそこでは入り口をまたいで中に入ると、構築的な形成作用によって、作り上げられ、拡がりと奥行きへの動きに従って統一された空間が、順を追って現れることになり、かくてそこに在る一定の空間が体験せられることになるのである。然も同時に建物というものは周囲の空間との関係から見れば、ひとつの身体的形式としての目標なのであり、我々がそれに向かって歩み寄ったり、或いはそこから出て行ったりするものなのである。」

ここでとても重要な事柄は、建築(建築芸術)が「壁、柱、床、屋根」で形成されるものではないものとして表現されたことであり、この記述を引用したのは、その捉え方というものを「路地」に適応できるのではないかと考えたからです。

 路地は様々な事物の集積によって形成されていることは、認識のシークエンス(などの評価手法によって明らかになりました。建築が「壁、柱、床、屋根」であり、路地が「家と家の隙間」であるとすると、全く違うものとして表現されますが、経験からの空間アプローチから両者を考えると、「拡がりと奥行きへの動きに従って、順を追って現れることになる、一定の空間体験。」としてどちらも表現し得ると考えます。


 また、井上充夫は『日本建築の空間』の中で,
「近世日本の建築空間は、外国と比べて最も特色のあるもので、内部空間の構成だけでなく、建物の配置から庭園、都市などの外部空間の構成に至るまで、一貫した独自の性格が認められる。その特色は、一言で言えば「行動的空間」と呼ぶことができる。それは中国や西洋の建築に見られるような座標軸に縛られた幾何学的空間ではなく、人間の運動を前提とした流動的な空間である。そこでは見晴らしや見通しよりも、進むにつれて次々と変化する空間の継時的な展開が追求される。」

と述べており、観照者の運動とその変容しゆく空間展開を「行動的空間」と位置づけしており、同時に日本建築空間の特色として述べています。これは、バルセロナからの留学生であるマルタが、「西欧の街路に日本の"路地"のような概念があるか」という問いの解答を得るきっかけの一文として考えられます。


 最後に、比較芸術学と日本建築の空間から指摘された、「体験」「運動」「継時的観照」から建ち上がる空間形成に関して、ある建築的概念が真っ先に思い浮かびましたので、それを紹介します。

「人が入ると、建築的光景が次々と目に映ってくる。巡回するにしたがって場面は極めて多様な形態を展開する。流れ込む光の戯れは壁を照らし、あるいは薄暗がりを作り出す。正面の大きな開口にたっすると、形態の有様が見え、そこでもう一度建築的秩序を発見する。」

これは1923年にラ•ロッシュ=ジャンヌレ邸の創作を綴ったコルビュジェ全作品集に記載される言葉であり、これはコルビュジェの「建築的プロムナード」に関する初めての言説であると言われています。

1923 ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸 初期ドローイング

 路地をフィジカルな事物ではなく、ある「現象」として捉えるべきということは前回のゼミの議論でも話されましたが、ラ•ロッシュ=ジャンヌレ邸において、観照者の内に広がる心象風景を繋ぎ合わせることで「建築的秩序を発見」する、という現象によって建ち上がる建築であると言えるのでは無いでしょうか。

 この一連の考察中で僕は、路地を建築として捉え、内と外の境界領域として捉え、都市へのアプローチとして捉えているということを前提として、また仮説として、自分の考えを進めていこうと思います。それは、路地を路地として、建築を建築として捉えるのではなく、その枠組みを超えたところに入江研究室で路地ゼミをやっている事の意味がある様に思えるからです。建築を路地に引き寄せ、路地を建築に引き寄せて考えていけたらと考えています。

ただただ話をでかくしただけ感が溢れ出していますが、連載方式なんて小学校の夏休みの絵日記でしかやったこともないので、射程を長くとったということで、第一回はこれにて終われたらと思います。

文責:伯耆原洋太

2013年7月4日木曜日

既往研究について

 「路地本」をまとめるにあたって、既往研究として考現学を祖とするデザイン・サーヴェイを中心とした一連の流れを1900年代から現代までまとめ、年表にしました。そこに路地ゼミを並べてみることで、路地あるいは路地的なのものに関する研究の全体像を把握しようという魂胆だったのですが、なんとも言えない違和感を感じ、その年表だけで引き続き路地について議論することを躊躇うことになりました。
 それはデザイン・サーヴェイを始めとする動きが、集落であったり都市であったりを発見したのち、それを記述し定着させることを通して都市、社会というものを広く見ようとしたのに対し、路地ゼミとしては「路地的なもの」を含めて議論できるような「路地」の定義付け、つまり「言語化」が目的であり、記号として記録することはあってもそれはあくまでもその方法であること。また、デザイン・サーヴェイではあまり積極的に語られることのなかった(そして遺留品研究所はそこを批判しましたが)主体と客体の関係、更に認識の問題として主観、客観の問題の方をより意識している部分ではないかと思います。
 新たな既往研究が早く定まればそれに越したことはないのですが、次への糸口を見つけるためにもわたしの「今日の路地」では、何が違和感となっているのか更に整理しつつ、場所を認識するときの見るものと、見られるものとしての場所の関係を考えていきたいと思います。

 参考文献 <アタラシヤ>としての<ヒトーもの> 
          遺留品研究所 1971.7.都市住宅
      創る基盤としてのデザイン・サーヴェイ
          宮脇檀 1971.12.都市住宅
      メイド・イン・トーキョー
          貝島桃代 黒田潤三 塚本由晴 2001

文責 吉川由

2013年7月1日月曜日

路地と視覚 1.

 我々はこれまで試行錯誤を繰り返し、路地、或いは路地的なものの評価を試みてきた。何故それを路地と認識するのか。何故、ある路地は、快く感じ、またとある路地からは、心躍らされるものを感じるのか。一方で、路地ではないと感じたり、路地的であっても不快に感じるものもあるが、その差異とは何なのか。これらのことを、以前のゼミにて、明暗、多孔性、要素の集積性などの6つの観点から各々が主観的に評価し、レーダーチャート化・類型化し、路地の持つ魅力、即ち「奥性」と呼べるものについて考察してきた。
(http://irielabrs2013.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html)

 私はこれを、予てより関心を持っていた、観察対象から表出する形象-観察者による表象の問題であると捕らえ、「視覚」に焦点を絞り、考察していきたいと考えている。無論、路地、或いは路地的であると感じるものには、その地域の文化や歴史といった要素も多分に内包していると考えられる。が、それを総て視覚と言う絶対的な尺度で測ることで、逆説的にその背景を炙り出すことができよう。上述のレーダーチャートによる評価も、このことに近いことをしていると考えられる。
 まずは、純粋に、視覚によって空間がどのように捉えられているか、と言うことについて考えねばならない。このことについて、ヒルデブラントは、一目で捉えられる範囲の平面的な表象、つまり視覚印象表象と、一目では捉えられないほど大きいもの、または近くにあるものについて、目を運動させることで全体像を把握すると言う運動表象の二つに分けて考えている。この二つの表象方法による空間の認識のプロセスを、同氏は以下のように説明している。

“知覚する人にとって、目に見える姿を空間的に読みとっていくという意味での、見るプロセスは、完全に無意識のうちに進行する。つまり、この人は、視覚印象を、いつのまにか空間表象として受け容れていく。しかし、表象するということになれば、わたしたちは、対象を、一部は視覚表象から、また一部は運動表象からというかたちで合成しなくてはいけない。言い換えれば、わたしたちは、まずおおよその視覚像を表象しておいて、それを立体性への要求に従って、そのつど運動表象で満たしていくということになる。”

 このことを路地について考えたときに(これは路地に限らず空間を持つ全てのものに言えることだと考えられるが)、路地の全体像は、歩行しながら目で見るという知覚の時間的な前後関係によって捉えられるものだと言える。
 こうして得られた部分像、或いは全体像には、我々の感情に働きかけるものがあるのは確かである。これを、ヴェルフリンは「対象の表出」と述べ、表出は肉体的な経験の追体験である可能性に触れ、ルネ・ユイグはかたちの外に存在するすべてのものを含んだ見えないもの、すなわち「力」であると論じた。今日、他にも多くの研究者が、このかたちに付随するなにものかについて、それぞれの切り口から言述している。

 繰り返しとなるが、路地における、この表出、ないし力とは、どのようなものなのか。逆に、どのような要素が、路地を路地たらしめているのか。次回の私の回も継続して視覚と言う観点から、今度はより具体的な例を参照としつつ、考察を続けたい。

参考文献:
「造形芸術における形の問題」 A.ヒルデブラント 著 ; 加藤哲弘 訳
「建築心理学序説」 H.ヴェルフリン 著 ;上松佑二 訳
「かたちと力 原子からレンブラントへ」 R.ユイグ 著 ; 西野嘉章,寺田光徳 訳

文責 : 岩澤亮介

2013年6月25日火曜日

西欧にみる「路地」

 第二回目の路地ゼミにて、我々が扱う路地とは、近代以降の価値の転換によって発見された「認識の方法」であるとした。(http://irielabrs2013.blogspot.jp/2013/03/130320.html)
このことは、路地が既存の概念であることを前提とした考察から、「路地的であること」への発見的な考察による議論の幅を示してくれたように思う。


 6月から本ブログ内の「今日の路地」は各自が連載形式で更新していくことになったのだが、私のエントリーでは、少なくとも2、3回のうちは西欧における路地について取り扱ってみたい。これは、路地ゼミにおいて日本と西欧における路地の共通点と相違点の存在が度々指摘されてきたにも関わらず、その関係性について未だ有効な考察がなされていないことによる。
ここでは、バルセロナからの留学生であるマルタによって投げかけられた、“そもそも西欧の都市における街路のなかで、日本語の意味するところの「路地」が存在するのか”という問いに応えるところから始めたい。

『見えがくれする都市』で槙文彦が、“誰もが、都市全体について、あるいは、その部分について美しいとか醜いとか、あるいは好きとか嫌いとかいう判断、意見をもつことは出来よう。しかし、それ等は本当に都市を理解することにならない”と前置きした上で、“経済、歴史と同じように、様々なかたちを生むにいたった背景にある原則を知ることが、先ず第一に必要なのである”と述べているように、ひとまず我々が路地と呼ぶものの生成過程を理解することからスタートしなければならないだろう。

“路地は、その発生を考えると、敷地のうちで長屋と長屋にはさまれた隙間、残余空間であった”と高谷時彦が述べているように、東京と京都に多少の差異はあるにしても、形態からみたヒエラルキーにおいて通りや横丁(横町)の下におかれる狭義の意味での路地は「残余空間」である。そうすると、西欧の都市の街路には、その語源からもよみとれるように路地と呼べるものは存在しえない。
それは、ただ単に都市の中に残余空間が残されてこなかっただけでなく、残余空間が「路地」へと昇華される素地が西欧には無かったからである。それが観察できる例を二つあげたい。
一つは、都市におけるグリッドパターンの性質の違いから読み取れる。江戸の下町にみられるグリッドパターンは、自然の地形によって区切られたある範囲のなかに実利性をもとめて配置され、その格子状は地形の変化によってたやすく向きや大きさを変えてきた。そのひずみを容認する文化が、すでに都市形成の大きなスケールで現れている(あるいは培われている)のが分かる。一方西欧に代表されるグリッドパターンはいわば秩序を表すものであって、都市全体を支配している。これはグリッドそのものがある世界観をもっており、残余空間は秩序を乱すネガティブなものと捉えられ、都市のなかに積極的に生みだされる余地はなかった。
もう一つは、それらグリッドパターンによってできた一つのブロックの変遷の歴史にみられる。一般的に西欧の都市では、中心を住民の広場としつつそれを囲むように住居がならんでいる。槙文彦の言葉を借りれば、それは宗教的、歴史的にも、西欧人が培ってきた“集団の記憶”のかたちであり、明確な中心性が現れている。同じように日本の町にも当初、中心に会所地という共用広場がもうけられていた。江戸と京都で時期の違いこそあるが、次第に会所地は建物によって埋められ、みちへと変化していく。分かりやすいのが秀吉による天正の地割で、これはブロックが一つの単位として捉えられていた街区の概念から、通りとその両側の範囲を一つの単位とする両側町の思想へと発達していったことによる。明確な中心の広場を保持し続けてきた西欧に対して日本の会所地がこのような変遷を経たことからも、日本特有の奥性、ひいては「みち」文化が大きな広場ではなく「みち」というかたちでの残余空間を積極的に認めてきたことが分かる。
このように生成過程をみていくと、歴史的に日本において残余空間が路地となりうる素地ができあがっていったのに対して、西欧には残余空間がみちのかたちとして残されて行く事は思想的背景からもありえなかったのである。

 さて、路地を鳥瞰的平面的な見地から考察したとき、日本語の「路地」が持つ背景と同じようにできた道は西欧に存在しないということになる。
しかしながら、路地ゼミのなかでそうであったように、我々が西欧の町並みに「路地」を見いだす事があるのは何故だろうか。次回では、冒頭に述べた「路地的であること」に立ち返りつつ考察を進めていきたい。

参考文献:見えがくれする都市 / 槙文彦 他著



文責:渡部 悠

2013年6月24日月曜日

「都市に棲まう形式」


歴史という構造物の場を形成するのは、均質で空虚な時間ではなく、〈いま〉によってみたされた時間である。
— ヴァルター・ベンヤミン/「歴史の概念について」,1940
/岩波文庫『ボードレール』 野村修訳 


これからしばらく、私が「今日の路地」として考究する事柄の名を「都市に棲まう形式」としてみようと思う。ここでは3つの問いかけが為されている。

1、私たちが生きているこの「都市」とは何か?
2、その場所に「棲まう」とは何か?
3、それを現象させるための「形式」とは何か?

これが私の関心の大枠である。「路地ゼミ」においては特に「私」という主体がその「形式」を如何に「認識」しているのかということが論点になろう。
今後行われる論考のなかで、考え方の基礎をヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)の言説に依拠したいと思っている。ベンヤミンが常に念頭に置いていた「歴史のある一点を現在からの跳躍として捉える」(マルクス由来の唯物史観)という視点に則って、過去の「歴史」の中から、現在の「路地」を、これからのこととして「発見」したい。


文責:早田 大高

2013年3月30日土曜日

今日の路地12 「名」と路地

今回は入江研究室で行われている路地ゼミ中に登場する街路・路地に関する「名」の理論に対して、ヴァルター・ベンヤミンの言説を上乗せすることを目的とした。

ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)はドイツの批評家。ユダヤ系であり独自の美学的象徴論や寓意論を展開。ナチ時代には亡命地のパリなどでマルクス主義的芸術論や社会史研究を行った。パリ陥落後、逃亡の途上ピレネー山中で自殺。ベンヤミンの系譜が断片的にしか残っていないことや、自殺に至る所以はすべて、歴史の「起伏」のなかで発生した。技術社会の急激な発展の裏側で発生した余条件により、ベンヤミンの運命は決定されてゆき、その最もたる戦争の勃発により、自身の人生に悲運な終止符を打った。この断片的かつ時代に切り込むような言葉にこそ思想の確信があり、他者はベンヤミンを断片として記憶することは出来ても、その全体像を理解するものはいない。孤立を畏れぬ強靭な精神力、近代化に対する盲目的な忠誠から抜け出し、自身の断片と現在形を表明するために前進し、群衆のなかに都市を見た。都市、技術を錯覚する天才的陶酔者、あるいは複製技術時代の彷徨える迷子である。


私達の路地に対するノスタルジーを含む感覚は近代以降の知的思潮の影響からも派生してきていることはゼミから学習することが出来た。ベンヤミンの生きた複製技術の芸術時代を初めとする様々な思考、都市に対する陶酔経験は日本の路地の文脈とも本質的に繋がっているのである。何故なら現代の路地を知覚するのは近代以降の教育を受け、ある程度の固定観念を必然的に持ってしまった私達であるからである。


「街路名にひそむ感覚性。それは普通の市民にとってどうにか感じとれる唯一の感覚性である」
ヴァルター・ベンヤミン著『パサージュ論』断片群P「パリの街路」に登場する一節である。


「名」として街路・路地に新たな情報を付加することは、歩行者に対して純粋で感覚的な印象を呼び起こし、その印象は目の前に広がる路地の物理的な印象と相互浸透・二重化することで想起可能なイメージを増加させることが可能である。

「こうしたヴィジョンを引き起こすことができるのはたいていの場合、麻薬に限られている。ところが実際には街路名もこうした場合に、私達の知覚を押し広げ、多層的にしてくれる陶酔を起こすものとなる。街路名が私達をこうした状態へと誘ってくれる力を換気力と呼びたい。-だがそういっただけでは言い足りない。なぜなら連想ではなくイメージの相互浸透がここでは決定的だからである。ある種の病理現象を理解するにはこの事実を想起しなければならない。何時間も夜の町を徘徊し、帰るのを忘れてしまうような病気の人は、おそらくそうした力の手に落ちたのである。」

「普通ならごくわずかな言葉、すなわち特権階級にある言葉だけにとっておかれたことがらを、都市はすべての言葉に、あるいは少なくとも多くの言葉に可能にした。すなわち、名という高貴な地位に格上げされることである。この言語における革命はもっともありふれたもの、すなわち街路によってなしとげられた。街路名によって、都市は言葉の宇宙となる。」

以上『パサージュ論』断片群Pより抜粋。今後の路地に関する「名」の考察に対し都市を記号化しコード化してきた近代以降に始まる都市形成理論の一連の流れを理解することは重要である。

文責 赤池一仁

2013年3月29日金曜日

今日の路地11 路地のジレンマ


11回目となる今日の路地では、これまでより少し視点を引いて、俯瞰して見えてくる路地の一面について記述していけたらと思います。
今回紹介するのは墨田区京島の路地であり、下町としての風景が広がりとても魅力的な、個人的に卒業設計の敷地で取り扱った場所でもあります。

 





京島は木造密集市街地の典型的な場所であり、細い道がうねりながら続き、小さな町工場が連続し、長屋が所狭しと並んでいます。
写真は京島の路地です。ディープな路地が迷路の様に展開しており、1200mmもない道幅にゴミ箱や洗濯機や植栽などが雑多に配置されており、また各住居の玄関へのアプローチにもなっています。
観察者としての僕は、入っていいものか分からなかったのですが、「この路地のさらに奥はどうなっているのか」という気持ちに駆られ、引きずり込まれていきました。
しかしなぜこのようなディープな路地が発生し、今なお残っているのであろうか、今回の今日の路地はその生成過程を紹介できたらと思います。

東京大空襲の被害を免れた京島

長らく沼や池が多く分布し、金魚の養殖地として栄えていた京島が住宅地として形成されたのは関東大震災の直後からでした。深川や錦糸町の被災者達の住宅難に目をつけた大工が棟割長屋を多数建設し、それを人々に賃貸しました。つまり大工集団が地主から土地を借り受け、長屋経営を行ったのです。
それら大工衆が国家の政策の行き届く前に、震災のドサクサに紛れて急遽宅地造成を行った為、インフラの整備もほとんどなされず、古い農道の曲がりくねった道が今日も京島の骨格となっています。


農道が今なお街の骨格となっている

それは東京大空襲でこの地域一帯が被害をまぬがれたことも一つの原因ですが、複雑な権利•所有関係によってデベロッパーが開発しようにもまとまった土地を確保できず介入できないことにも起因しています。

京島に見られる複雑な所有•権利関係はまさに長屋の賃貸経営によって発生しました。土地を所有する地主、土地を借り家を貸す借地人、家を借り家賃を払う借家人という関係が今日まで続いています。

そのため、1970年台から度々行われてきたまちづくりによって木造住宅の不燃化が進むものの、こぢんまりとした鉄骨のマンションやコミュニティ住宅の建設にとどまっており、接道不良の危険区域の癌とも言える場所に未だ政策は行き届いてない状況にあります。現在の借地借家法では住まい手である借家人の意見が尊重される傾向にあるため、大多数の借家人の意見をまとめるのはかなり困難であります。


魅力的な路地の性質とも言える、「滲み出る」「染み出す」生活景の背後には、目には見えない「所有」「権利」の関係が存在しています。

京島の場合ではその「地主」「借地人」「借家人」というがんじがらめの関係が、火災危険区域、倒壊危険区域に指定されるような国家としては癌のような場所でありながらも、東京では希少な存在となったノスタルジー溢れる昭和の下町風景を保つことに寄与しているという、一種のパラドクスやジレンマの渦中にある路地だと言えます。



文責 伯耆原洋太



2013年3月22日金曜日

今日の路地・10 Concept learning meaningful.

Explicació gràfica del concepte de “路地”
representant l’estructura teòrica de la
ciutat des d’una visió Japonesa.

Graphical explanation of the "路地"
concept with a representation of the
Japanese vision a theoretical city structure.
Representació de l’estructura teòrica 
de la ciutat des d’una visió Catalana. 
Representation of the Catalan vision 
of a theoretical city structure.


Segons la teoria de David. P. AUSUBEL l’aprenentatge significatiu d’un concepte es basa en la capacitat de relacionar la nova informació amb algun element ja existent de l’estructura cognitiva de la persona. Aquests nous coneixements s’adquireixen de forma gradual, a diferents nivells de comprensió i de forma qualitativament diferent.

According to the theory of David. P. Ausubel, learning a meaningful concept is based on the ability to relate new information with elements of existing cognitive structures of the individual. This new knowledge is acquired gradually, at different levels of understanding and in a qualitatively different way.

Sovint la primera reacció per aprendre un nou concepte és la comparació amb un de similar. L’analisi d’ambdues imatges es pot fer per contrast o per convergència tot i que sempre tendim a buscar les diferències, és en trobar les semblànces quan acabem de fixar el concepte.

Often the first reaction to learning a new concept is to compare it to a similar one. Analysis of both images can be done to contrast or converge, although we tend to look for differences. Finding similarities helps to fix the concept.

“路地” o carrer són conceptes urbànistics d’origen històrico-cultural completament differents. Aquest fet també influeix en la seva morfologia i està directament relacionat amb la forma de la ciutat i el concepte de l’espai públic com es pot veure en la imatge superior. Tot i això durant el seminari sobre “路地” el treball ha estat més dirigit cap a la definició de les característiques sensorials d’aquest espai i aquestes si que poden coincidir amb el concepte de carrer.

"路地", or street, which have different historical and cultural origins are both urban concepts, but are completely different. This also affects their morphology which is directly related to the city shape and the concept of public space as you can see in the picture above. However, during the seminar on "Rojí", work was directed towards defining the sensory characteristics of that space which can be similar to the street concept.




Aquesta cançó escrita en 1970 parla dels sentiments de l’autor en la seva infància i adolescència en una Barcelona dels anys 40. Una Barcelona de post-guerra on en núclis urbans com Poble-sec  la gent vivia en comunitat com si es tractés d’un poble tot i ser ciutat.

This song was written in 1970 and speaks about the feelings of the author during his childhood and adolescence in Barcelona 40 years ago. In post-war Barcelona people lived in urban areas like Poble Sec as a village community, even though they were part of the city.

“El meu carrer” és un record d’infantesa i alhora és una descripció sensorial del món físic que el rodeja. Si no ens centrem exclusivament en les característiques dimensionals, la descripció física i ambiental del carrer on vivia l’autor ens pot transmetre la sensació de caminar per un “路地”. Tots dos espais urbans no estan estrictament planificats, són una succeció de fets, d’objectes quotidians i de textures diferents. Tot i no ser gaire lluminosos permetent la sosciabilització dels veins i el joc dels nens. Són espais de vida on s’acumulen plantes, bicicletes, cadires.... espais amb els que t’identifiques perquè vius, descobreixes i creixes.

"My Street" is a childhood memory and  also a sensory description of the physical world that surrounded him. If we do not focus exclusively on the dimensional characteristics and the environmental and physical street description of where he lived,  we can almost get the feeling of walking in a "Rojí." Neither urban area is strictly planned, they are simply a succession of facts, everyday objects and different textures. Despite not having much light they allow the socialisation of neighbours and childrens play is possible. They are living spaces with an accumulation of plants, bicycles, chairs .... spaces that you can identify with because you're living , discovering and growing.


撮影した場所:月島
Carrer de l’Aiguafreda, barri d’Horta (Barcelona)











Written by Marta Perez Franco, From barcelona


2013年3月20日水曜日

今日の路地・9 暗色世界


今日紹介するのは、東秀紀氏による「荷風とル・コルビュジエのパリ」に登場する路地像です。
この本では、永井荷風とル・コルビュジエという、1908年3月のパリを同時に目撃した二人の芸術家の視点から都市が論じられています。両者ともにこのパリ訪問がその後の活動における思想の原点となったと同時に、全く正反対の理想都市を追い求めるようになるきっかけでもありました。



オーギュスト・ペレとの出会いを通し、「刺激的で、新しいものが始まろうとしている」パリを知ったル・コルビュジエ。彼にとってパリとは「あらゆる人と情報が集中し、展開する世界都市。古典と前衛の芸術が共存し、理性的な精神と感性的な情緒の交差する都」でした。一方でパリの路地つまり「ブールヴァール(表通り)の背後に隠れた裏通り」は、「彼が撲滅しなければならない、不衛生きわまりないスラム」だったのです。

彼は、大都市、特にその都心と表通りを愛した。(中略)他方で彼は、パリにやってきた頃住み着いた裏町には郷愁を覚えなかった。むしろ彼はそれを憎み、「ヴォワザン計画」では破壊し、中心に高速道路を持ち込み、土地の大半を緑地にして超高層ビルを林立させることを提案した。それはあのオスマンでさえ、思い及ばなかった大胆な計画であった。

一方で永井は、「一つの区域や建物にブルジョワジーから労働者まで雑多な人間が同居し、働く場と生活する場が混在した、コンパクトで高密度な都市空間」としてのパリに魅了されます。

「ふらんす物語」に収められた「雲」という短編で、荷風はパリには二つの世界があると書いている。その二つとは、「花、絹、繍取、香水」などによって創り出される「明色世界」と、「雑草、激流、青苔、土塊、砂礫」によって成り立つ「暗色世界」である。前者はシャンゼリゼ大通りや凱旋門などの繁華を彩る「花の都」の表面であり、後者はその裏側にある小路や空き地、墓地といった場所である。

狭い路地だが、人々の生活の匂いがふんぷんとし、古くからの記憶がこめられている街角。人々が生まれ、成長し、泣き、喜び、そしてひっそりと死んでいく場所。
さまざまの痕跡と景観が、想像力をかきたて、物語を育んでいく小路。オスマンの改造の際に取り壊しを免れた、そういう「暗色世界」のパリこそが、住民たちにとって住みやすく、離れがたいものにしている、この都市の本質であり、文明の本質であり、文明の圧力や技術の発展を越えて、なおパリを生き続けさせていくものだ、と荷風は見て取ったのである。

これは、「無批判に近代化を推進する東京や、機械文明と実利志向のアメリカの諸都市に生活」したことで「文明のすさまじさに恐怖していた」永井の、オスマンにより新設されたブールヴァールに象徴される近代都市への違和感によるものでした。そして帰国後、永井はこのパリ体験を東京に敷衍したエッセイ「日和下駄 一名東京散策記」を発表し、江戸時代以来の風景に都市の理想像を見出します。

古いパリ、すなわち裏町に残る中世のパリと、市区改正で破壊されていく江戸の要素が、同じように近代以前の豊かで人間的な都市風景として、荷風の心の中で重なっていったのである。彼にこうした体験をもたせたのは、同じ年の、深川を訪れた体験によるものであった。(中略)ボードレール的空間をパリに探し求めた荷風にとって、深川の「衰残と零落とのいい尽し得ぬ純粋一致調和」は、まさに彼がパリの裏町において愛したものと呼応する風景であった。(中略)さらにそれは、近代化の中で、不安と憂鬱を含んだ彼個人の内面とも共鳴していったのである。

このように対照的な軌跡を描きながらも、晩年の二人の都市への視点は、やがてひとつの点へと歩み寄りつつありました。

最晩年のヴェネツィア病院にみられる空間は、それ自体は建築ではあるが、既存の都市への配慮を強く感じさせ、帝都復興事業の際に永井荷風が提案した「快活なる運河の都」と偶然にも一致している。(中略)「光」と「闇」を兼ね備えた都市をつくること。それが、かつてパリに触発された荷風が提案した東京の姿であり、終生パリにこだわり続けたル・コルビュジエが最後に残したスケッチであった。

(あとがきより)ロンシャン礼拝堂、ラ・トゥーレット修道院、そして未完のまま残されたヴェネツィアの病院プロジェクト―ル・コルビュジエは、これらによって彼が生涯をかけて取り組んできた近代建築・都市計画を、かつての機能や効率性優先とは異なった、精神的な方向に修正し、より高い次元で完結させようと決意していたのである。そしておそらく、変化の動機となったものは、第二次世界大戦の悲劇と、その末に彼を再び出迎えてくれたパリへの感動であったろう。疎開先から帰った時、彼と妻イヴォンヌを出迎えたのは、凱旋門やルーブル美術館、エッフェル塔などの象徴的建造物やブールヴァール沿いの美しい町並み、そしてカルチェ・ラタンの学生街や裏町、古い修道院に、なお人間的雰囲気のたちこめる、多様な魅力をもつパリの懐かしい姿だったからである。

この本の中で描かれる二人の思想の違いの背景に、路地ゼミで度々議論の的となる、日本人と西欧人の路地の捉え方の違いというものが存在していることは言うまでもなく、路地について考える上で極めて重要なトピックであることは間違いありません。しかしながらそれ以上に、二人の思想の軌跡が「明色世界」として築かれた近代都市の光と闇を我々に再認識させ、同時にその限界に対するアプローチとして路地のような「暗色世界」が持ち得る可能性を示唆していると解釈する事も出来るのではないでしょうか。抽象的なテーマではありますが、今後の路地ゼミを通し思考を深めていきたいと考えています。




今日の路地 「濹東綺譚」挿絵(1937)

これは、晩年の永井が失われた裏町を求め、土地区画整理に取り残された玉ノ井地区へと通い詰め書いた「濹東綺譚」における、木村荘八氏による挿絵です。
「暗色世界」のなかに描かれた、今にも動き出しそうな、生き生きとした人々の姿が印象的です。



参考文献
東秀紀「荷風とル・コルビュジエのパリ」新潮社(1998/02)

文責 津田光甫

2013年3月19日火曜日

今日の路地・8 『人間のための街路』


街路はエリアではなくヴォリュームである。街路は何も無い場所には存在し得ない。すなわち周囲の環境とは切り離すことができないのである。言い換えるなら、街路はそこに建ち並ぶ建物の同伴者に他ならない。街路は母体である。都市の部屋であり、豊かな土壌であり、また養育の場でもある。そしてその生存能力は、人びとのヒューマニティーに依存しているのとおなじくらい周囲の建築にも依存している。



路地ゼミが行われてから、何度か話の話題に上っていたバーナード・ルドルフスキーの『人間のための街路』の一節です。この本は「偉大な戸外空間、すなわち歩行者のための街路と、そしてそこで出会う人びとについて」書かれています。そして、
この本を未知の歩行者に捧げる
からこの本は始まっています。

では、具体的に街路が母体であるとする例をあげてみようと思います。今回は近々フィールドワークを行う予定である神楽坂を挙げてみることにします。
神楽坂は、ゼミの中で取り上げられた「しつらえの路地」と「生活の路地」のなかでは、しつらえの路地に入ります。神楽坂の街並みや街路は起伏在る地形の上に個性的に姿を現し、訪れる人にまちあるきの楽しさを提供しています。情緒豊かな名勝を持つ路地や坂は、時に蛇行し、時に階段を有します。直線的なものは少なく、神楽坂の背骨にあたる神楽坂通りも、わずかながらの角度で線形を変えています。そしてこの通りを歩くと、道の右側と左側の景観は異なり、上り・下りによっても表情が変わる。坂道は上りは視界の大半を両側の建物と路面がふさぎ、下る時には、場所により街路樹ごしに景色が遠くまで見通すことができます。そして路地の幅は、半間から一間(90-180cm)ほど、この狭い路地で人びとは道路では味わえなくなった気遣いや配慮を自然にこなしているのです。
神楽坂のまちの形成は中世以降に進み,江戸時代に現在のまちの骨格が出来上がりました。なので、現在の路地は中世時代のものと、明治以降に出来上がったものが混在しています。明治以降に出来た路地の形成過程は、料亭等の建物が新たに造られ、あるいは、いくつかが建て替えられると、それに面する路地が少しずつ変化していいきます。路地は、現在の道路のように一度つくられたら固定してしまうものではなく、少しずつ、延びたり、枝分かれしたり、時には消滅したりと姿を変えていたようです。
そう言った、その土地に住んでいる人びとの行いや振る舞いによって路地の形態が異なる時間軸とともに変化していく空間を、路地的空間と呼びたいと思います。



今日の路地 神楽坂熱海湯横丁

文責 百武けやき


2013年3月17日日曜日

今日の路地・7 「東京Y字路」


本日の路地ゼミのブログを執筆するにあたり、最初に浮かんだのは横尾忠則のY字路シリーズでした。ゼミで討論されている路地からは少々脱線しますが、私にとっての路地は横尾氏の絵に描かれるどこか殺伐とした路地にあると思い、本日の「今日の路地」は横尾氏の写真集「東京Y字路」の文を引用しつつ執筆させていただきます。



写真は横尾忠則の「東京Y字路」に掲載される目白のY字路です。路地ゼミでは、魅力的な「路地的空間」とは、奥へと誘う明暗の変化、不連続的な統一性を持った、人々の生活臭漂う空間と捉えられています。写真に映し出される路地は確かに上記のような条件を有していると思われますが、そこには路地特有のノスタルジックな温かみといったものを感じ難いです。寧ろ人を突き放すような冷たさすら感じられます。その理由として、背景が夜でありながら昼のような様子を覗かせている事と、全くの無人である事があげられます。

横尾忠則がY字路を描き始めたのは、故郷の西脇にあった模型屋の建つ三叉路を発端としています。横尾氏がある時この三叉路を訪れると模型屋は存在せず、それでもその場所を写真におさめました。あとでその写真を見直してみると、そこには見知らぬY字路があり横尾氏は「記憶の中の風景はそこにはなかった。その途端郷里に対するノスタルジーがぼくの中から消えて行くのを感じた」と述べ、「その時ぼくは「これだ」と思った。私意識から切り離された風景こそ絵の対象になるべきだと思った」と記しています。この時の感覚を基に横尾氏はY字路の連作絵画に着手し、「東京Y字路」の写真集に至ります。ここで「東京Y字路」内の椹木野衣の解説文を引用します。「横尾が(東京Y字路で)撮っているのはそのような瞬間なのだ。これは、横尾が西脇で最初に出会った「ノスタルジー」がかき消された状態、個人的な関心が見い出せず、記憶が消去されてしまった写真の有り様とも言えるだろう。西脇の模型店の時は偶然であったかもしれないが、本書に収められた写真のなかで横尾は、場所と時刻にかかわらず、「そのような瞬間」を克明に反復させている。」だからこそ、「東京Y字路」の写真に映し出される路地からは路地特有の温かみを感じ難い。寧ろ、感じさせないように横尾氏はY字路と路地を写真に収めたのだと思います。

「過去の写真はしばしばノスタルジーを保存する(あるいは生み出す)ものとしてあるけれども、この場合は逆である。むしろノスタルジーを消す装置として写真はあるのだ。反対に、Y字路の連作絵画において作者はノスタルジーを回復しているように思えなくもない。が、しかしそれは失われたノスタルジーを取り戻すことを意味していない。あえていえば、万人に共通のノスタルジーというか、そういうものを感じさせる(そんなものがあるとしたら、それこそ「普遍的な個」というものだろう。)」(椹木野衣の解説文より)横尾忠則のY字路の絵画における路地には、懐かしさを感じながらも殺伐とした冷たさを感じます。それは路地ゼミで討論されてきた、生活臭溢れるノスタルジックな路地的空間とは異なります。本日の「今日の路地」は、路地からはやや脱線した話題を取り扱いましたが、路地に対する対照的ともいえる視点を紹介する事で、今後の議論がより活性化されればと思います。

最後に、横尾忠則のY字路作品「暗夜光路N市-I」を掲載して筆を置きたいと思います。



参考文献:

『東京Y字路』/横尾忠則/国書刊行会 (2009/10/10)

文責:塩谷歩波

今日の路地・6 「猫町」


 以下は、萩原朔太郎による小説「猫町」の一節です。

 その日もやはり何時も通りに、ふだんの散歩区域を歩いていた。私の通る道筋は、いつも同じように決まっていた。だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。そしてすっかり道をまちがえ、方角を解らなくしてしまった。(中略) 余事はとにかく、私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑やかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった。(中略) 私は夢を見ているような気がした。それが現実の町ではなくって、幻燈の幕に映った、影絵の町のように思われた。だがその瞬間に、私の記憶と常識が回復した。気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである。(中略) 何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない。一瞬間の中に、すっかり印象が変ってしまった。そしてこの魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している。いつも町の南はずれにあるポストが、反対の入口である北に見えた。いつもは左側にある街路の町家が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった。
 その時私は、未知の錯覚した町の中で、或る商店の看板を眺めていた。その全く同じ看板の絵を、かつて何所かで見たことがあると思った。そして記憶が回復された一瞬時に、すべての方角が逆転した。すぐ今まで、左側にあった往来が右側になり、北に向って歩いた自分が、南に向って歩いていることを発見した。その瞬間、磁石の針がくるりと廻って、東西南北の空間地位が、すっかり逆に変ってしまった。同時に、すべての宇宙が変化し、現象する町の情趣が、全く別の物になってしまった。つまり前に見た不思議の町は、磁石を反対に裏返した、宇宙の逆空間に実在したのであった。

 劇中における主人公は、三半規管に疾患を持っており、方角を感知する能力が人より劣ると言う設定の青年です。通常の旅行に飽きた主人公は、薬物による副作用によって現実と夢の狭間を往来する「旅行」を繰り返していましたが、薬物服用をせずとも、同様の不思議な体験が出来ることをある日発見しました。普段見ていた近所の横丁ないし散歩区域が、突如として見覚えの無い、非常に魅力的な世界に見えた。その世界を、朔太郎は作中で「景色の裏側」と表現しています。
 特に疾患もなく、無論薬物も服用したことのない私も、同様の経験をしたことがあります。例えば、電車に乗っていて、居眠りしてしまったとき。電車は終点を折り返し、一度通過した駅に、今度は逆方向から接近する。そこで目を覚ました私は、自分がまるで知らない世界に放り込まれたと錯覚する。見知った駅名を掲げた看板や、電車の乗り降りの記憶が無いことから、間違いなく普段利用している路線にいる。が、窓から見える景色が、進行方向から考えてまるで異なる。私は時計を見ることで、漸く異常な時間が経過し、終点を折り返し目的地とは逆方向に向う電車に乗っていることを知覚することで、窓から見える世界が馴染みのものだと気付く。それまでの短い時間ですが、未知の世界に思えた景色は新鮮で魅力的に感じましたし、作中の言葉を借りれば、景色の裏側を旅行したような感覚を覚えました。

 魅力的な路地とは、例えば全体は均質に見えながら通過する方向によって全く異なる様相を呈したり、気候や時間帯によって絶えず変化する要素を持ち合わせていたりして、来訪者に何らかの感覚(時間、方向感覚など)を麻痺させ、稀にふっと見たことの無い景色を見せてくれる。曖昧なものと言うよりは明瞭なものの集合であるが、それらが絶えず流動し、位置関係や時節と言った偶然性を孕むことで、時として景色の裏側を見せる。そういうものではないでしょうか。

写真は、挿絵を担当されている金井田英津子氏による作品


文責:岩澤亮介

2013年3月14日木曜日

今日の路地・5 『見えない都市』


第一回のゼミの中で魅力的な「路地的空間」は、奥へと次の展開を予感させるようなカーブや起伏、ある種の記号が見えかくれし、人々の生活の堆積の様子が感じられるような空間であったと思います。今日は、それとは違う意味での魅力的な「路地的空間」について考えてみたいと思います。

そこでまず、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』から一節を抜きとってみたいと思います。

「年若い娘が一人、肩の上に寄せかけた日傘をまわし、またまるい腰の膨みすらもいくらかまわしながら、通りかかります。黒い服を着た女が一人通りますが、面紗のかげのおどおどとした目、震える唇といい、その様子はおのれの年齢をあますところなく示しております。刺青をした巨漢が通ります。白髪の若者、小人の女、珊瑚色の服を着た双子の姉妹も通ります。彼らのあいだを何ものかが走り抜け、見交わす彼らの眼差は、あたかも図形から図形を結ぶ直線のように走って、矢印やら星やら三角やらを描き出し、こうしてありとあらゆる組み合わせが一瞬のうちにできあがってしまいます。と、その間にまたほかの人々が登場して来るのでございます。豹を鎖につないでつれている盲、駝鳥の羽の扇をもった遊女、お小姓、女角力。こんなふうに、たまたま同じ廻廊に雨宿りして顔を合わせるとか、露天市の日除けの下にしゃがみこむとか、あるいは街角に立ちどまって楽隊の音に耳傾けるとかする人々のあいだでは、ただの一言も交わすことなく、指一本ふれ合うこともなく、ほとんど目をあげることさえもなしに、奇遇、誘惑、抱擁、大饗宴がくりひろげられるのでございます。」

この小説は、マルコ・ポーロがフビライ汗に自らが訪れた55の都市について、身ぶり手ぶりを交えながら物語っているものです。採りあげた一節は、「都市と交易」と題されて紹介されている都市クローエについてのものですが、ここではその都市の形態やそこにあるものの様子などに関しては全く語っていません。語っているものはひたすらマルコ・ポーロが通りで見かけた人々の様子についてだけです。彼にとっては、それが他の都市には決してないクローエだけの特別な都市の様相、例外だったのかもしれません。ひたすら人々の様子だけを述べているだけですが、何となくその通りや周辺の建物についてもイメージが及んできます。結果的に、その通りの人々があたかも風景になっているような、カルヴィーノの言葉を借りれば、人々が矢印やら星やら三角やらといった図形を描き出しているような感じもします。
これまでのところ魅力的な「路地的空間」というものは、冒頭で述べたようにその路地にある「もの」だけについて考えていました。しかしそこに「人々」が含まれることにより、さらに魅力的なものとなることがあるのではないかと思います。

ということで今日の路地は、映画「ブレードランナー」からデッカードが外へ逃げたゾーラの後を追って街の中を捜しまわるシーン。





文責 佐々木崇

2013年3月13日水曜日

今日の路地・4 広場と路地

第一回の路地ゼミにおいて、日本には広場はないが路地はあるということが話題にあがり、広場と路地を対比的なものとして扱いました。そこで今回はその広場と路地について考えてみたいと思います。

この広場と路地について考えるには、欧州と日本の村落の構成に着目する必要があります。欧州の小さな町を訪れるとたいてい町の真ん中には教会があります。その教会には塔があり、町のどこからでも見えます。そしてその教会の前に広場があるといる構成が多く見られます。それに対して、日本の村落というと、山の下を走る街道に沿って細長く集落は配置され、それに対して直角に道から奥まったところに樹木を背にした神社があります。下の絵がそれを端的に示しています(上、サン・ポールドヴァンス 下、江戸近郊八景之内池上晩鐘)。日本人には見えない位置に重要なものを存在させ、それに至るまでの道程を設定する「奥」に対する感覚が早くから芽生えていたと思われます。













このような日本人独特の自然観が発展して、微地形や微妙な屈折など「奥」を持った路地に文化が生まれたのではないでしょうか。 もちろん欧州にも路地はありますが、日本人が持つ路地に対する感覚と外国人が持つ路地に対する感覚は異なるように思います。今後、この路地ゼミを通して路地の空間の分析からその背後にある思想にまで発展して考察を深めていくことができると良いのではないかと考えています。

ということで今日の路地は東京都台東区、廿世紀浴場跡地近くの路地です。


参考文献:
『見えがくれする都市―江戸から東京へ』/槙文彦/鹿島出版会 (1980/6/20)
『日本の景観 ふるさとの原型』/樋口忠彦/ちくま学芸文庫 (1993/1/7)

文責:斎藤愼一

今日の路地・3 生活の路地

ある種の路地に迷い込んだ他所者は、間違って他人の家に入り込んだような印象を持つことがある。路地空間とはしばしば、近隣の住宅の生活がにじみだしてくる空間であるからである。その生理的な時間のレイヤーの背後には日常の営為が見え隠れする。路地に迷い込んだ他所者は異物として浮遊する。下にある写真は、東京都本郷の路地空間である。道と家の間に塀はなく、植木鉢や物干竿、生活用具がおかれ、近隣の人同士とみられる女性が二人で話こんでいる。


人 と人の距離の関係が書かれた『かくれた次元』の所説に従えば、路地空間では公衆距離をとることが困難で、知人同士の距離である社会距離が住宅の内部にまで 侵入してしまう。路地に入った他所者は、他人の領域に入り込み、その素性を知ってしまったような危うさが好奇心となって先へ進みたくなるのではないか。

現代に生きる我々にとっては、こういった路地を「魅力的」と捉えることが良くある。現代都市において、個人の領域というようなものは、追いやられ、見えない 場所に隠されている。“他人”の個人の領域が珍しくなり、群衆の中で生きる現代人にとって、そういった個人の領域が垣間みられる路地空間とは、魅力的に映るであろう。「ALWAYS 三丁目の夕日」等の映画に見られるノスタルジックな路地は、小規模な共同体の生活景が魅力的に描かれている。

しかし、そのような路地空間が昔から他所者にとって魅力的であったかは疑問が残る。個人の領域が追いやられた現代でこそ魅力的であって、それ以前の日本では むしろ他所者にとっては入っていくことを躊躇するような空間であったのではないか。『見えがくれする都市』では、『都市の日本人』という本の引用がなさ れ、昭和26年頃の路地空間の印象を物語っている。「自分たちの近くの隣人は『親戚よりもっと親しい』といっている(中略)隣人たちは、種々様々の方法で 互いに助け合う。だれかが家をあけるときには、他のものが留守番を買って出る。下山町の人びとは心から隣人を信頼しているが、外界のひとには大きな不信の念をいだいている。」とし、「外来者は拒否的な視線に出会い、不審なものには用を問いただす。」としている。都市の中に個人の領域が生きていた時代は、他所者は意識的にそういった空間に足を踏み入れることを忌避していたのではないだろうか。

文責 松岡 啓太

2013年3月12日火曜日

今日の路地・2 イメージマップ

「路地」という言葉の定義が第1回路地ゼミで話題に上りました。路地(ろじ)は単刀直入に言うと「家と家のスキマ」ですが、どうやら京都では少し意味合いが異なり、発音も「ろーじ」となるようです。実は「ろーじ」と発音したことなどない私ですが、今回は京都出身者として京都の「ろーじ」を取り上げます。

これは甲斐扶佐義さんの写真集「京都の子どもたち」の中のいくつかある小見出しのページのひとつです。「狸橋・幸小路 イメージマップ」とされていて、かつて甲斐邸があった場所、お気に入りの狸橋を始めとして、安い変わった魚を売る店、ドンペリ1本30万のバー、などたくさんのメモが書かれています。

甲斐さんは岡林信康、中川五郎、浅川マキなどがライブをしたり、吉田拓郎や下田逸郎が顏を出し1970年代関西フォークの名所となった「ほんやら洞」という喫茶店の店主です。

甲斐さんは喫茶店の経営とは別に、 京都の町や人の写真を長年撮影しています。「京都の子どもたち」は甲斐さんが1975年から2003年までに撮りためた子どもたちの写真が、撮影した場所と一言メモとともにまとめられたものです。
甲斐さんの中にある京都のイメージマップはそこでの生活を感じさせる、「生活の路地」を強く感じさせるものとなっています。

「生活の路地」「しつらえの路地」というキーワードがゼミでは度々出てきました。またそれは第三者的な視点を意識しているかどうかというような言葉にも変換されてきましたが、甲斐さんのイメージマップや子どもたちの写真の遊び場や背景となっている路地は撮影者の生活の一部分であり、そしてある意味ではイメージマップはこのあたりで生活している人皆の共通認識を表しているように思います。来訪者によるその路地のイメージは現代ではノスタルジーに偏るところが大いにあると思いますが、そこに住む人にとっては自分の領域、生活の場を拡張してくれる役割を持つものです。京都と言えば、というイメージとは少し違うかもしれませんが、本当の「ろーじ」はこういうものではないかと思います。

最後に「京都の子どもたち」から一枚。
路地 新門前切通付近 1993


文責 吉川由

2013年3月11日月曜日

今日の路地・1 「それから」

日本における「路地」はそもそも、「露地」や「辻子」といった余白や接点としての広場の意味をもっていたと言われています。それはまた、より単純に言えば、「家と家の隙間」であり、しつらえや生活の為の「通路」であるとも言えます。
私たちが第一回目のゼミを通して感得した「路地的である」ということの意味としてそれは、暗く狭くためらいを覚えると同時に身体的で安らぎを覚える場所であり、猥雑な物の集積や生活の滲みだした場所であることもあれば整えられしつらえられた共用部でもあり、人々の関心と無関心が表出され、副次的な産物であると供に主体性や統一感を持ち得、非形式的で即興的な個別性をもっていることは同時に封建的な匂いを残し、導入でもあり行き止まりでもあり、談笑の場や遊び場、時にはアジールとなることも出来れば、犯罪の温床とも異臭を放つゴミ捨て場ともなりうる様な場所である様として捉えられました。
そして魅力的な「路地的空間」は、奥へと誘う様な明暗の変化やカーブ、シンボルを持っており、テクスチャーや集積物によって不連続な統一が与えられ、公共的でありながら其所に生きる人々の所有の痕跡が感じられ、形式的であるよりはむしろアウラが感じられる様な空間であろうと思います。


今回、1つ目の路地を紹介するにあたって、いきなり反則を犯すことを申し訳なく思います。新潮文庫版の「それから」のカバーイラストとなっている絵は、安野光雅さんの描かれた変わりゆく東京市の風景だと思いますが、直接路地的空間とは関係があると考えてはいません。
1909年、明治42年に書かれた漱石の「それから」は、遊民的生活を送る主人公の代助が、旧友の平岡とその妻三千代に再会し、逡巡しながらも三千代を奪い去り、社会に背を向けて生きていこうとする一場面を描いた小説です。代助の実家は青山にあり、自身は神楽坂に住まいながら、平岡と三千代の家のある小石川との3つの場所を行き来する中で、代助の葛藤と事態に心酔していく様が描かれます。そしてその移動の最中に、当時の変わりゆく東京の路地的な空間が、漱石の身体を通して重要な場面として描きだされていきます。
オープニングを飾る路地として何が最もふさわしいかを考え倦ねた挙句、最も生き生きとその路地的な空間性が現れているものは漱石の文体の中にあるのではないかという考えに至り、それに見合う路地的な空間の映像は、今後の研究を通じて探していきたいと思っています。
少し長くなりますが、以下に簡単な説明と漱石の文章を示して、今日の路地の1つ目とさせていただきたいと思います。