2013年4月2日火曜日

今日の路地13 路地とイメージ


今日の路地・7「東京Y字路」を担当致しました塩谷と申します。今回の「今日の路地」は、前回東京Y字路を通して考察を行った「路地とイメージ」について、より踏み込んだ内容で考えていきたいと思います。

通い慣れた模型屋が消失した際のY字路を描いた事をきっかけに、横尾忠則の「東京Y字路」の連作は始まりました。慣れ親しんだ模型屋が存在した際のY字路は横尾氏にとって身体化された通りであり、生活の一部の風景といえます。この時点で横尾氏は”生活者”としてY字路を眺めておりましたが、模型屋がなくなった際には客観的な立場である”観察者”の視点からY字路に対峙しています。この事は「郷里に対するノスタルジーがぼくの中から消えて行くのを感じた」という横尾氏の記述から読み取れます。模型屋の消失をきっかけに、”生活者”から”観察者”に移行した視点から観察されるY字路は大きな差異があり、その時感じた違和感を絵として具現化したのだと思います。生活の一部であったY字路の風景は、模型屋の消失により「私意識から切り離された風景」に変貌します。恐らく、その風景は「万人に共通のノスタルジーを感じさせる風景」であり、つまり個々のイメージが重なった風景であると考えられます。横尾氏にとってその風景は氏のノスタルジーが掻き消えたイメージと重なったため、「東京Y字路」に描かれる路地はどこか寒々しい印象があるのではないでしょうか。以上の事を踏まえ、今回の「今日の路地」では横尾氏が模型屋が消失したY字路で体験した個々のイメージが重なった風景と、路地に関して考察していきたいと思います。



上記の絵はジョルジョ・デ・キリコの「通りの神秘と憂愁」です。急激なパースをつけて描かれた通りは路地とは少々言い難い外見をしていますが、本日の「今日の路地」ではこの通りを路地の奥行き性を誇張した表現として考えます。この絵画に対する解説は諸説ありますが、一様に幻惑、困惑、不安、恐れ等の感情を暗示する絵として捉えられています。どこまでも続くような奥行きをもった通りは巨大な影、それに向かう少女の姿と相俟って確かに人の不安感を誘います。奥行き性を路地の一つの性質と考えるならば、この絵画から感じ取れる不安、恐れといった感情は路地がもつイメージの一つといえるかもしれません。キリコの絵画だけでなく、路地を舞台とした不安感を誘う作品は少なくないのはそういった要因があるのではないかと考えております。

少々強引なロジックとなってしまいましたが、”観察者”が路地に抱くイメージについてはまだ考察の余地があると思いますので、今後とも路地ブログを通じながら考えを深めて行きたいです。最後に、著者が波太の路地を巡りながら描きあげたという、つげ義春の「ねじ式」の一コマを紹介して筆をおきたいと思います。この作品も不安感を誘うおどろおどろしい世界が展開されております。




参考文献:

『東京Y字路』/横尾忠則/国書刊行会 (2009/10/10)

文責:塩谷歩波

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