2013年6月25日火曜日

西欧にみる「路地」

 第二回目の路地ゼミにて、我々が扱う路地とは、近代以降の価値の転換によって発見された「認識の方法」であるとした。(http://irielabrs2013.blogspot.jp/2013/03/130320.html
このことは、路地が既存の概念であることを前提とした考察から、「路地的であること」への発見的な考察による議論の幅を示してくれたように思う。


 6月から本ブログ内の「今日の路地」は各自が連載形式で更新していくことになったのだが、私のエントリーでは、少なくとも2、3回のうちは西欧における路地について取り扱ってみたい。これは、路地ゼミにおいて日本と西欧における路地の共通点と相違点の存在が度々指摘されてきたにも関わらず、その関係性について未だ有効な考察がなされていないことによる。
ここでは、バルセロナからの留学生であるマルタによって投げかけられた、“そもそも西欧の都市における街路のなかで、日本語の意味するところの「路地」が存在するのか”という問いに応えるところから始めたい。

『見えがくれする都市』で槙文彦が、“誰もが、都市全体について、あるいは、その部分について美しいとか醜いとか、あるいは好きとか嫌いとかいう判断、意見をもつことは出来よう。しかし、それ等は本当に都市を理解することにならない”と前置きした上で、“経済、歴史と同じように、様々なかたちを生むにいたった背景にある原則を知ることが、先ず第一に必要なのである”と述べているように、ひとまず我々が路地と呼ぶものの生成過程を理解することからスタートしなければならないだろう。

“路地は、その発生を考えると、敷地のうちで長屋と長屋にはさまれた隙間、残余空間であった”と高谷時彦が述べているように、東京と京都に多少の差異はあるにしても、形態からみたヒエラルキーにおいて通りや横丁(横町)の下におかれる狭義の意味での路地は「残余空間」である。そうすると、西欧の都市の街路には、その語源からもよみとれるように路地と呼べるものは存在しえない。
それは、ただ単に都市の中に残余空間が残されてこなかっただけでなく、残余空間が「路地」へと昇華される素地が西欧には無かったからである。それが観察できる例を二つあげたい。
一つは、都市におけるグリッドパターンの性質の違いから読み取れる。江戸の下町にみられるグリッドパターンは、自然の地形によって区切られたある範囲のなかに実利性をもとめて配置され、その格子状は地形の変化によってたやすく向きや大きさを変えてきた。そのひずみを容認する文化が、すでに都市形成の大きなスケールで現れている(あるいは培われている)のが分かる。一方西欧に代表されるグリッドパターンはいわば秩序を表すものであって、都市全体を支配している。これはグリッドそのものがある世界観をもっており、残余空間は秩序を乱すネガティブなものと捉えられ、都市のなかに積極的に生みだされる余地はなかった。
もう一つは、それらグリッドパターンによってできた一つのブロックの変遷の歴史にみられる。一般的に西欧の都市では、中心を住民の広場としつつそれを囲むように住居がならんでいる。槙文彦の言葉を借りれば、それは宗教的、歴史的にも、西欧人が培ってきた“集団の記憶”のかたちであり、明確な中心性が現れている。同じように日本の町にも当初、中心に会所地という共用広場がもうけられていた。江戸と京都で時期の違いこそあるが、次第に会所地は建物によって埋められ、みちへと変化していく。分かりやすいのが秀吉による天正の地割で、これはブロックが一つの単位として捉えられていた街区の概念から、通りとその両側の範囲を一つの単位とする両側町の思想へと発達していったことによる。明確な中心の広場を保持し続けてきた西欧に対して日本の会所地がこのような変遷を経たことからも、日本特有の奥性、ひいては「みち」文化が大きな広場ではなく「みち」というかたちでの残余空間を積極的に認めてきたことが分かる。
このように生成過程をみていくと、歴史的に日本において残余空間が路地となりうる素地ができあがっていったのに対して、西欧には残余空間がみちのかたちとして残されて行く事は思想的背景からもありえなかったのである。

 さて、路地を鳥瞰的平面的な見地から考察したとき、日本語の「路地」が持つ背景と同じようにできた道は西欧に存在しないということになる。
しかしながら、路地ゼミのなかでそうであったように、我々が西欧の町並みに「路地」を見いだす事があるのは何故だろうか。次回では、冒頭に述べた「路地的であること」に立ち返りつつ考察を進めていきたい。

参考文献:見えがくれする都市 / 槙文彦 他著



文責:渡部 悠

2 件のコメント:

  1. 内田樹さんによると、日本人ほど「日本人とは何者か」を語りたがる民族は他には居ないそうです(確か『日本の文脈』のなかで言っていたと思う)。そういった意味で、西欧とは違うけれど、中国から「秩序としての都市計画」みたいなものは入って来ていたにもかかわらず、善くも悪くもナァナァに使いこなして来た日本人。個人的にはそういう部分に興味があります。
    敢えて批判的に言うと、「歴史的に日本において残余空間が路地となりうる素地ができあがっていったのに対して、西欧には残余空間がみちのかたちとして残されて行く事は思想的背景からもありえなかった」と言ってしまうのは性急ではないか。僕は西欧の都市構造には明るくないけれど、直感的に思うのは、多分「路地」なるものは古今東西に存在していて、しかしそれを「路地」と読んで愛でようとする「認識の仕方」に日本的な感性が働いているのではないかと思います。つまり「モノ」ではなく「コト」を見る視点が必要なのでは?「モノ」の成り立ちを追っていってもどこかで霧散していってしまうような感覚があるのです。僕達は(僕は?)原理的に物事を考えるのが苦手なのかもしれません。
    いずれにせよ、マルタの言うように「路地」という感覚が西欧(未だに日本と西欧とか言ってるのも日本人ぐらいかもしれませんが)では希薄な感覚であるのなら、僕達のやっていることを英語なりにして発信するというのは案外面白い効果があるのかもしれませんね。
    長くなってしまいましたが、デザイン・サーヴェイの先駆けとしてもみられている『日本の都市空間』や『日本の広場』のような文献と、ルドフスキーやアレグザンダーやベンチューリ(あれ?全員アメリカ人だわ)が訴えてたことと、比較してみると面白いのかなと思いました。
    雑感ですみません。

    早田

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  2. 早田さん

    僕自身も日本人が「路地」と呼んで愛でている「路地」なるものは古今東西にあると思います。
    はじめに「路地が既存の概念であることを前提とした考察から、〈路地的であること〉への発見的な考察」と書いたように、今回の記事の内容は前者であり、それ自身に対する批判を込めて書いています。
    「歴史的に日本において残余空間が路地となりうる素地ができあがっていったのに対して、西欧には残余空間がみちのかたちとして残されて行く事は思想的背景からもありえなかった」という極論に関して、おっしゃる通りいまその是非を問う事は強引だと思います。ただ一つ言えるのは、「日本で路地とよばれているもの」を生成過程から分類しそれを別の場所で探す(あるいは照らし合わせる)という手順、つまり、個人の感性や主観を出来る限り排除し「様々なかたちを生むにいたった背景にある原則を知ることが、先ず第一に必要なのである」と槙さんが『見えがくれする都市』のなかで提示した都市の分析方法のみでは、ここで西欧における「路地」なるものを見落としてしまったように、「路地」を本当に理解できないのではないか、ということです。
    しかし、それを無視していきなり別の角度から入っても論として脆いと思ったので、まずこのような記事を書きました。

    次回の記事では「コト」というよりもいったん「見え」という表象的なところを扱うつもりですが、ルドフスキーやアレグザンダー、ベンチューリなども含めてより深いところの考察に進んで行けたらなとおもいます。

    渡部

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