2013年7月5日金曜日

「時間」と路地1 「経験」から成る空間について



第二期路地ゼミ始動に当たって、この路地ブログの「今日の路地」のコーナーが各々関心のあるテーマで定期的に更新していく連載形式へと変わりました。

 これまで行われてきた路地ゼミの中で自分が一貫して考えてきた事は、路地における「時間」についてです。第二回の路地ゼミでは、路地における時間要素を「短期」的要素、「中期」的要素、「長期」的要素の3つに分類することによって、その時間要素と路地の認識のされかたがどのような繋がりをもっているかを考察しました。(http://irielabrs2013.blogspot.jp/2013/03/blog-post_25.html)
 継続して第三回の路地ゼミでは、「時間」という包括的すぎる言葉を路地的な言語に変換し「可変度」というパラメータによる認識の方法を提案しました。「可変度」は時間の長さに対してどのくらいの変化がその路地に発生したかという尺度です。しかしこの二回のゼミで行った内容やボードは本質的な認識の方法としての意味合いを持つに至らなかったと考えています。(http://irielabrs2013.blogspot.jp/2013/04/blog-post_12.html)
 というのは路地、または空間に「時間」を落とし込むには自らの「経験」や「体験」による身体運動を通さない限り発生し得ないと考えるからです。路地の写真、画像によって要素を抽出する作業では経験を通す事ができません。自分でやっといて無責任な発言ですが、「時間」を推し進める上で適切な方法では無かったとも思います。

 ならばどうすれば「時間」を含んだ路地の評価が可能になるのか。言い換えると、路地自体、路地全体というものをどうやったら評価できるか、捉えることができるか。そして、それを伝えることができるか。ということに要点を絞ることができると思います。
 このことは路地だけでなく、建築にも及ぶ命題のように思います。建築雑誌に乗っている内観写真、外観写真、また1/200ほどの平面図によって僕たちはその建築を評価しようとしてるわけです。人がいない、電化製品やティシュペーパーもない、網戸も取り外された撮影用カスタマイズ建築を評価してるわけになります。
 あくまで写真というツールが手軽で、わかりやすく、伝わりやすい(伝えやすい)表現であるから用いている、ということに自覚的でなくてはならないと思うわけです。


 これから僕が執筆していく「時間」に関しての一連の考察が、これからの路地ゼミの認識の方法の深化への補助となることを目標に書き進めていきたいと思います。
第一回目の今回は路地における「時間」ではなく、もう少し根本的な、「経験」を通した空間体験に関して記述します。

まずはじめに、本研究室の「内と外の空間論序説」等で度々参照される、D.Freyの「比較芸術学」の冒頭に記述された一説を引用したいと思います。

「凡ゆる造形芸術は身体表現の至る空間表現である。それは、一面では固有の身体感情、筋肉及び運動感情、抵抗や手探りの感情、重さや量の感じなとによって規定され、他面では我々をとりまき、我々がその中で動き回ることができ、その中に入り込むことができ、我々の運動に目標を与え制約を設けるものと言った、主体的な運動空間としてのこの世界についての体験の仕方によって規定せられている。」

ここでは、身体感覚と結びついた全ての知覚を通してこそ「空間」を認識できるという一面と、動き回る、入り込むなどの運動によって体験せられたものが「空間」となるという一面を説明しています。
つまり空間を規定するのは「主体的なあらゆる知覚」と「体験の仕方」であるということと思います。
続けて、

「全ての建築芸術は目標と進路という二つの契機を媒介とくる空間形成である。民家だろうと神殿だろうと、すべて建物というものは構築的に形成された進路である。即ちそこでは入り口をまたいで中に入ると、構築的な形成作用によって、作り上げられ、拡がりと奥行きへの動きに従って統一された空間が、順を追って現れることになり、かくてそこに在る一定の空間が体験せられることになるのである。然も同時に建物というものは周囲の空間との関係から見れば、ひとつの身体的形式としての目標なのであり、我々がそれに向かって歩み寄ったり、或いはそこから出て行ったりするものなのである。」

ここでとても重要な事柄は、建築(建築芸術)が「壁、柱、床、屋根」で形成されるものではないものとして表現されたことであり、この記述を引用したのは、その捉え方というものを「路地」に適応できるのではないかと考えたからです。

 路地は様々な事物の集積によって形成されていることは、認識のシークエンス(などの評価手法によって明らかになりました。建築が「壁、柱、床、屋根」であり、路地が「家と家の隙間」であるとすると、全く違うものとして表現されますが、経験からの空間アプローチから両者を考えると、「拡がりと奥行きへの動きに従って、順を追って現れることになる、一定の空間体験。」としてどちらも表現し得ると考えます。


 また、井上充夫は『日本建築の空間』の中で,
「近世日本の建築空間は、外国と比べて最も特色のあるもので、内部空間の構成だけでなく、建物の配置から庭園、都市などの外部空間の構成に至るまで、一貫した独自の性格が認められる。その特色は、一言で言えば「行動的空間」と呼ぶことができる。それは中国や西洋の建築に見られるような座標軸に縛られた幾何学的空間ではなく、人間の運動を前提とした流動的な空間である。そこでは見晴らしや見通しよりも、進むにつれて次々と変化する空間の継時的な展開が追求される。」

と述べており、観照者の運動とその変容しゆく空間展開を「行動的空間」と位置づけしており、同時に日本建築空間の特色として述べています。これは、バルセロナからの留学生であるマルタが、「西欧の街路に日本の"路地"のような概念があるか」という問いの解答を得るきっかけの一文として考えられます。


 最後に、比較芸術学と日本建築の空間から指摘された、「体験」「運動」「継時的観照」から建ち上がる空間形成に関して、ある建築的概念が真っ先に思い浮かびましたので、それを紹介します。

「人が入ると、建築的光景が次々と目に映ってくる。巡回するにしたがって場面は極めて多様な形態を展開する。流れ込む光の戯れは壁を照らし、あるいは薄暗がりを作り出す。正面の大きな開口にたっすると、形態の有様が見え、そこでもう一度建築的秩序を発見する。」

これは1923年にラ•ロッシュ=ジャンヌレ邸の創作を綴ったコルビュジェ全作品集に記載される言葉であり、これはコルビュジェの「建築的プロムナード」に関する初めての言説であると言われています。

1923 ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸 初期ドローイング

 路地をフィジカルな事物ではなく、ある「現象」として捉えるべきということは前回のゼミの議論でも話されましたが、ラ•ロッシュ=ジャンヌレ邸において、観照者の内に広がる心象風景を繋ぎ合わせることで「建築的秩序を発見」する、という現象によって建ち上がる建築であると言えるのでは無いでしょうか。

 この一連の考察中で僕は、路地を建築として捉え、内と外の境界領域として捉え、都市へのアプローチとして捉えているということを前提として、また仮説として、自分の考えを進めていこうと思います。それは、路地を路地として、建築を建築として捉えるのではなく、その枠組みを超えたところに入江研究室で路地ゼミをやっている事の意味がある様に思えるからです。建築を路地に引き寄せ、路地を建築に引き寄せて考えていけたらと考えています。

ただただ話をでかくしただけ感が溢れ出していますが、連載方式なんて小学校の夏休みの絵日記でしかやったこともないので、射程を長くとったということで、第一回はこれにて終われたらと思います。

文責:伯耆原洋太

2 件のコメント:

  1. 「このことは路地だけでなく、建築にも及ぶ命題のように思います。建築雑誌に乗っている内観写真、外観写真、また1/200ほどの平面図によって僕たちはその建築を評価しようとしてるわけです。人がいない、電化製品やティシュペーパーもない、網戸も取り外された撮影用カスタマイズ建築を評価してるわけになります。」
    という問題提起の取り方が、ありきたりかもしれないけれど、それが路地の評価とみ結びつくととても面白いなと思います。

    後半の考察のような現象学的な空間記述のアプローチは、多木浩二さん等をはじめ、いくつか既往の研究が存在すると思います。
    でも個人的には、伯耆原がいつも言っている時間の感覚は、もう少し醒めた視点、俯瞰的な視点があるのかなと思います。その辺が折り合って、今までにない空間の記述方法が現れてくるといいなと思いました。
    いづれにしても、次回のゼミを期待しています。

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  2. 読んでいると、なんとなく先日の文学の話と結びつけられて思う事があったので、個人的な感想としてここに書きます。

    前回の路地ゼミで、「内と外の空間論研究」の議論を通して、ソシュール言語学における言語の線状性について少し触れました。(同時発生的な現象を言語で表現しようとすると、その性質上それを同時に伝えることは不可能であり、必ず一本の線によって表現されるものであるということ。)
    それは、文学における内空間も同じくリニアな性質を持つことを示していると思います。ということは、この内空間に体験のシークエンスとそれに伴う時間が発生するということ。その時間の発生の仕方が路地に似ているのではないだろうか、と感じます。文学と路地の相性が良い、というのも、もしかしたらそういう一因があるのかもしれません。
    だとすると、伯耆原君の「時間」というテーマはより「文学としての路地」に近いのではないでしょうか。

    もう少し勝手なことを言ってしまうと、文学に表される内空間は、その線状性ゆえ劇的な変化の演出が可能であることを考えると、これもまた路地の性質に似ているのかなと思います。
    以前ゼミで認識のシークエンスについて議論しているとき、平井君が、人が認識した流れで路地が地図上に描かれるべきだと言っていたけど、その手法を文学のなかに見出す事もできるのかもしれないですね。

    渡部

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