2013年7月6日土曜日

言語について



東京において未熟なタクシーの運転手に行き先を伝える際、私達は小さな路地の名前を口に出さない。仮にその小さな路地が私達の口から言語として生じた際、その路地は既に共通認識のある魅力的な場所として命名されており、経済的利潤の中に空間化していることが多い。

一方、言語として街路・路地に新たな情報を付加することは、歩行者に対して純粋で感覚的な印象を呼び起こし、その印象は目の前に広がる路地の物理的な印象と相互浸透・二重化することで想起可能なイメージを増幅させることが可能である。

この実質的な路地の言語性と感覚的な路地の言語性の間に潜在する関係性は一体何なのかということに現在における路地の経済利潤的な新規性を期待している。

渋谷の「公園通り」や「スペイン坂」の命名は西武による街のイメージを喚起するためのマーケティングであり、新宿都庁の第一本庁舎と第二本庁舎の間を通る道路には「ふれあい通り」と命名された高層ビルに挟まれ立体交差する四車線道路が存在している。
街路・路地の命名は様々な組織の利害関係が混ざり合った上で都市に配置されるが、その街路や路地を歩きその場所や空間の印象として感覚的に想起してゆくのは私達本人である。

「街路名にひそむ感覚性。それは普通の市民にとってどうにか感じとれる唯一の感覚性である」
ヴァルター・ベンヤミン著『パサージュ論』断片群P「パリの街路」より

そのような現代の有り様の中で前回、現代の路地を知覚するのは近代以降の教育を受け、ある程度の固定観念を必然的に持ってしまった私達本人であるという視点から、私達の路地に対するノスタルジーを含む感覚は近代以降の知的思潮の影響からも派生してきており、ベンヤミンの生きた複製技術の芸術時代を初めとする様々な思考、都市に対する陶酔経験は日本の路地の文脈とも本質的に繋がっているという視点を持った上で路地を考察した。

この路地に関する議論の中で私はこの側面を継続し、路地から受ける人間の感覚性と実質的な経済利潤関係の絡まり合いから現代への可能性を考察していきたい。




文責:赤池一仁

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