2013年7月1日月曜日

路地と視覚 1.

 我々はこれまで試行錯誤を繰り返し、路地、或いは路地的なものの評価を試みてきた。何故それを路地と認識するのか。何故、ある路地は、快く感じ、またとある路地からは、心躍らされるものを感じるのか。一方で、路地ではないと感じたり、路地的であっても不快に感じるものもあるが、その差異とは何なのか。これらのことを、以前のゼミにて、明暗、多孔性、要素の集積性などの6つの観点から各々が主観的に評価し、レーダーチャート化・類型化し、路地の持つ魅力、即ち「奥性」と呼べるものについて考察してきた。
http://irielabrs2013.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html

 私はこれを、予てより関心を持っていた、観察対象から表出する形象-観察者による表象の問題であると捕らえ、「視覚」に焦点を絞り、考察していきたいと考えている。無論、路地、或いは路地的であると感じるものには、その地域の文化や歴史といった要素も多分に内包していると考えられる。が、それを総て視覚と言う絶対的な尺度で測ることで、逆説的にその背景を炙り出すことができよう。上述のレーダーチャートによる評価も、このことに近いことをしていると考えられる。
 まずは、純粋に、視覚によって空間がどのように捉えられているか、と言うことについて考えねばならない。このことについて、ヒルデブラントは、一目で捉えられる範囲の平面的な表象、つまり視覚印象表象と、一目では捉えられないほど大きいもの、または近くにあるものについて、目を運動させることで全体像を把握すると言う運動表象の二つに分けて考えている。この二つの表象方法による空間の認識のプロセスを、同氏は以下のように説明している。

“知覚する人にとって、目に見える姿を空間的に読みとっていくという意味での、見るプロセスは、完全に無意識のうちに進行する。つまり、この人は、視覚印象を、いつのまにか空間表象として受け容れていく。しかし、表象するということになれば、わたしたちは、対象を、一部は視覚表象から、また一部は運動表象からというかたちで合成しなくてはいけない。言い換えれば、わたしたちは、まずおおよその視覚像を表象しておいて、それを立体性への要求に従って、そのつど運動表象で満たしていくということになる。”

 このことを路地について考えたときに(これは路地に限らず空間を持つ全てのものに言えることだと考えられるが)、路地の全体像は、歩行しながら目で見るという知覚の時間的な前後関係によって捉えられるものだと言える。
 こうして得られた部分像、或いは全体像には、我々の感情に働きかけるものがあるのは確かである。これを、ヴェルフリンは「対象の表出」と述べ、表出は肉体的な経験の追体験である可能性に触れ、ルネ・ユイグはかたちの外に存在するすべてのものを含んだ見えないもの、すなわち「力」であると論じた。今日、他にも多くの研究者が、このかたちに付随するなにものかについて、それぞれの切り口から言述している。

 繰り返しとなるが、路地における、この表出、ないし力とは、どのようなものなのか。逆に、どのような要素が、路地を路地たらしめているのか。次回の私の回も継続して視覚と言う観点から、今度はより具体的な例を参照としつつ、考察を続けたい。

参考文献:
「造形芸術における形の問題」 A.ヒルデブラント 著 ; 加藤哲弘 訳
「建築心理学序説」 H.ヴェルフリン 著 ;上松佑二 訳
「かたちと力 原子からレンブラントへ」 R.ユイグ 著 ; 西野嘉章,寺田光徳 訳

文責 : 岩澤亮介

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