2013年7月6日土曜日

第五回路地ゼミ13.07.04議事録

第五回路地ゼミにおいては、前回の奥性の議論を主軸として、パラメータ化の作業を継続し、803枚の世界中の路地写真を集積しパラメータ化を試みました。



【レーダーチャート】
一つの図に写真を分布するのではなく、一つの写真に一つの図(レーダーチャート)を与える。
上のようなレーダーチャートをそれぞれの路地の写真全てに対して作成し、評価する。その上で、奥性の強弱の評価とレーダーチャートの傾向との間になんらかの関係性を発見できないだろうかという提案を行いました。奥性という感覚の問題と数値化された値との関係を考察することで、感性を数値化し、パラメーターとして表すことの可能性を考えます。




集積した803枚の路地を総合点が高い順に整理し、各グループに別れて路地のパラメータに対して討論しました。上図は総合点が一番高かったパラメーター図と路地性を感じた絵画の事例です。


1.  新しい形・傾向の発見


植民地型

これはシンボル、不可視性が低めであり、東京においてもゴールデン街などにこの形が見られる。自然発生的でないアジアの路地にこの傾向は多く見られ、植民地型の低い箇所が増加するとアジア型へ向かうことになります。



ダイヤ型(明暗とD/Hが飛び出ている形)

これは暗い中に一点の光があるような写真に多い傾向があります。また、ある一定のD/Hを発見することにより得点の高い路地が多いことを発見しました。


2.  シンボルは評価軸に不要ではないか。

シンボルが高いことと不可視性が高いことは相反する事実であると考え、この二者があることでパラメータが狂う為に、シンボルは不要ではないか。また評価軸の一つであるシンボルは結果が0か5になりやすく、シンボルが低いと集積性と多孔性が高くなる。これは他のものに視点が映るからではないかを推測する。また上位に日本の路地写真が少ないのにはシンボルが関わっており、西洋のようなシンボル性が無いことにより現状のパラメータでは日本は分が悪く、より生活感という視点で評価してみると日本の路地評価が上がるのではないか。また日本人はアジア的な路地をよく見たことがあるので、一種の慣れが生じてしまっている点に対する考慮の必要性があるのではないかという指摘が為されました。

3. その他の議論 まとめ

感覚的には良い路地であるが総合得点の低い路地に対して、数値で表現され得ない新しい評価軸も考慮するべきである。

また奥性の評価軸として、奥行の表現方法の差異を議論に加えるべきである。(奥行の積層性等)

絵画や都市の俯瞰図等、一定の評価軸で全てを評価出来ない段階に来ているのではないか。様々な路地の種類の限定に関しては慎重にならなければならない。


以下これらの発表に対する討論の内容です。

佐々木:基本的に一回目と二回目のデータの差異はそんなにないのだが、(集積性は評価軸が出たから別として)シンボル不要説などの議論も含めてやりながら感じたことありますか。
渡部:そもそもこのデータは曖昧な評価ではないのか。このレーダーチャートを定量的に測れるものにする必要がある。より詳細な決まりをつくる必要があるのではないか。現在総合のバランスで路地の奥性を評価しているが、ひとつひとつも十分に奥性を評価しているので、そこはどうなのか。
早田:物凄く厳密に評価軸を決めてひとつひとつ評価する必要は無いのではないか。すべて確かにそれらで評価出来るが、この定量的に評価出来るということは以前の話で討論済みである。しかしこれらはどこまでいっても定量性を越えられない。これでは基に戻ってしまうのではないか。客観的な視点で評価をするということは別に厳密さを求めていない。あくまで感覚的な事柄を数値化することでそのバランスを見るのであってそれを大切にしたい。
渡部:確かにそうだけれどこれでは既にわかっている物事を追求しているだけに過ぎず、新たな物事の発見にまで及んでいないのではないか。
吉川:路地的な絵画をはねのけられた前回の議論から、絵画を路地化する手法として奥性が現れたのではないか。
伯耆原:今後は絵画をカテゴライズしてやっていった方が良いのではないか。絵を抜き出してその形を抽出してそれと似た路地を見つけるような事をやってみたい。
早田:この議論に定着のあり方を求めるべきではないか。終着点が無いとやってみたところで結論に落とし込むのが難しい。800個とかじゃなくて物事を絞ってやってみると精度が上がってきて良くなっていくのではないか。もしこれを続けるのであれば分類の方法をしっかり決めて、次の路地に対して生かすべきできではないのか。
斎藤:備考欄を○と×でやるのではなくて、例えば「ヒトの視点」とか視点を変えて見てみることで新しいマトリクスが描けるのではないか。
早田:平面図みたいな図面はさすがに奥行を評価するのは無理じゃないか。なんで絵画が評価出来るのかというと最低限の空間を絵画に想像しているからではないか。あと、この評価方法には時間の軸がかけている。それと空の切り取り方が大事だと思う。あるH/Dが存在するのはそういうことではないか。ガレリアとか空が全くないものは路地ではないのではないか。空の切り取られ方だけ研究してみると良いのではないか。あくまで評価できないのが路地であって、それらが評価できないからこそ路地のデータって少ないのではないか。その中で一見どうでもいいような路地に評価軸を加えてガイドブックを作ると価値のあるものになるのではないか。何を思って写真を持ってきたのかをひとりひとり説明して欲しい。


次に、既往研究『内と外の空間論―言語系の表現事例を通して』を主題に議論を行いました。

発表として、文学テクストの空間は人物の意識と呼応しながら構成されており、どの人物の立場でテクストを読み解くか、その空間の中心点の位置によって空間の内部・外部の規定は変化する。記述された空間を解読するにはその空間の中心点を見定め、人物の心境と重ね合わせて空間の意味を捉える必要があるということが指摘されました。

まず、参考文献として国文学者であり文芸評論家である前田愛による『都市空間のなかの文学』を取り上げ、文学作品とそこに描き出されている都市空間の相関を解読する中で著者の空間の捉え方について発表されました。




著者は作中人物の心理や行動を〈図〉とした上で、その背景として記述される空間を〈地〉として捉え、〈地〉である背景としての「内空間」は作中人物や語り手の意識を反映し、人物の行為と呼応しながら全体の意味を強めていると指摘します。
次にG・フローベルの『ホヴァリー夫人』を例に説明し、テクストの空間には語り手や作中人物の視点を基準とした中心点が存在し、話の進行とともにそれが移り変わることで「内空間」の拡大がもたらされると指摘し、テクストの中で実際に記述されている部分は限られているが、読者はその記述されている部分に喚起されて記述されていない部分の空間をもイメージするとしています。
また主体となる人物が変化することで、空間のオモテとウラは逆転し、空間を把握するための中心点を何処に定めるかによって同じ場所であっても異なる空間として表出することを指摘しました。




またベルリンの都市空間を「内」と「外」の対立項で分節化したテクストとして知られる森鴎外による『舞姫』を取り上げ、「公」であるベルリン中心部から見ればクロステル街は都市の外部であり、裏側としてマイナスの意味合いで認識されるが、太田にとっては自身の心境と一致した内部的空間であったと指摘します。その中で片山孤村の『伯林』を取り上げ、クレーゲル路地の実景を議論と連関した路地の参考写真として挙げました。


内と外の空間論―言語系の表現事例を通して』発表後の討論の内容としては、今回の発表を踏まえて、写真ばかり題材にしていては発展性がないのではないかという問題提起は多いに出来ると言う意見があり、人間の心の中には内と外があって、それ次第で中心が変化し見方が圧倒的に変化する中で、作者が想像しているもの以上に人々がどのように感じるかということが小説は興味深いと思ったと言った意見がある一方、言葉は一つで一つの空間しか表現できないという言説もあると言った指摘も為されました。また文学の空間は現実の距離を点から点にジャンプ出来るという事や、小説が映画化されて急に幻滅してしまうような現象は、このイメージの縮小に対して幻滅するのであろうかといった視点等様々な議論が展開されました。
また、共有できる価値が確立していないと、路地にしてもそれらを認識させることが出来ないが、それを超越出来るのが絵画や文学ではないのかという意見や、路地をレポートのような形で整理することは出来ないが、文学においてはそれらを整理・意識化することが出来る。このもどかしさは一体なんなのであろうかという指摘もありました。その中で挿話を挟むことが出来る事が多く発生する場所が人間生活遺構論であるという視点の重要さが再確認されました。


以上、今回の路地ゼミにおいてはパラメータによる路地の再評価と内と外の空間論からより広い視野で路地を捉えるという二軸構成により、路地の評価方法に関してより広範囲に捉え、深く掘り下げてゆくことで更なる発展が期待できる有意義な内容の討論が展開されました。


文責:赤池一仁

1 件のコメント:

  1. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除