2013年3月29日金曜日

今日の路地11 路地のジレンマ


11回目となる今日の路地では、これまでより少し視点を引いて、俯瞰して見えてくる路地の一面について記述していけたらと思います。
今回紹介するのは墨田区京島の路地であり、下町としての風景が広がりとても魅力的な、個人的に卒業設計の敷地で取り扱った場所でもあります。

 





京島は木造密集市街地の典型的な場所であり、細い道がうねりながら続き、小さな町工場が連続し、長屋が所狭しと並んでいます。
写真は京島の路地です。ディープな路地が迷路の様に展開しており、1200mmもない道幅にゴミ箱や洗濯機や植栽などが雑多に配置されており、また各住居の玄関へのアプローチにもなっています。
観察者としての僕は、入っていいものか分からなかったのですが、「この路地のさらに奥はどうなっているのか」という気持ちに駆られ、引きずり込まれていきました。
しかしなぜこのようなディープな路地が発生し、今なお残っているのであろうか、今回の今日の路地はその生成過程を紹介できたらと思います。

東京大空襲の被害を免れた京島

長らく沼や池が多く分布し、金魚の養殖地として栄えていた京島が住宅地として形成されたのは関東大震災の直後からでした。深川や錦糸町の被災者達の住宅難に目をつけた大工が棟割長屋を多数建設し、それを人々に賃貸しました。つまり大工集団が地主から土地を借り受け、長屋経営を行ったのです。
それら大工衆が国家の政策の行き届く前に、震災のドサクサに紛れて急遽宅地造成を行った為、インフラの整備もほとんどなされず、古い農道の曲がりくねった道が今日も京島の骨格となっています。


農道が今なお街の骨格となっている

それは東京大空襲でこの地域一帯が被害をまぬがれたことも一つの原因ですが、複雑な権利•所有関係によってデベロッパーが開発しようにもまとまった土地を確保できず介入できないことにも起因しています。

京島に見られる複雑な所有•権利関係はまさに長屋の賃貸経営によって発生しました。土地を所有する地主、土地を借り家を貸す借地人、家を借り家賃を払う借家人という関係が今日まで続いています。

そのため、1970年台から度々行われてきたまちづくりによって木造住宅の不燃化が進むものの、こぢんまりとした鉄骨のマンションやコミュニティ住宅の建設にとどまっており、接道不良の危険区域の癌とも言える場所に未だ政策は行き届いてない状況にあります。現在の借地借家法では住まい手である借家人の意見が尊重される傾向にあるため、大多数の借家人の意見をまとめるのはかなり困難であります。


魅力的な路地の性質とも言える、「滲み出る」「染み出す」生活景の背後には、目には見えない「所有」「権利」の関係が存在しています。

京島の場合ではその「地主」「借地人」「借家人」というがんじがらめの関係が、火災危険区域、倒壊危険区域に指定されるような国家としては癌のような場所でありながらも、東京では希少な存在となったノスタルジー溢れる昭和の下町風景を保つことに寄与しているという、一種のパラドクスやジレンマの渦中にある路地だと言えます。



文責 伯耆原洋太



0 件のコメント:

コメントを投稿