2013年3月14日木曜日

今日の路地・5 『見えない都市』


第一回のゼミの中で魅力的な「路地的空間」は、奥へと次の展開を予感させるようなカーブや起伏、ある種の記号が見えかくれし、人々の生活の堆積の様子が感じられるような空間であったと思います。今日は、それとは違う意味での魅力的な「路地的空間」について考えてみたいと思います。

そこでまず、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』から一節を抜きとってみたいと思います。

「年若い娘が一人、肩の上に寄せかけた日傘をまわし、またまるい腰の膨みすらもいくらかまわしながら、通りかかります。黒い服を着た女が一人通りますが、面紗のかげのおどおどとした目、震える唇といい、その様子はおのれの年齢をあますところなく示しております。刺青をした巨漢が通ります。白髪の若者、小人の女、珊瑚色の服を着た双子の姉妹も通ります。彼らのあいだを何ものかが走り抜け、見交わす彼らの眼差は、あたかも図形から図形を結ぶ直線のように走って、矢印やら星やら三角やらを描き出し、こうしてありとあらゆる組み合わせが一瞬のうちにできあがってしまいます。と、その間にまたほかの人々が登場して来るのでございます。豹を鎖につないでつれている盲、駝鳥の羽の扇をもった遊女、お小姓、女角力。こんなふうに、たまたま同じ廻廊に雨宿りして顔を合わせるとか、露天市の日除けの下にしゃがみこむとか、あるいは街角に立ちどまって楽隊の音に耳傾けるとかする人々のあいだでは、ただの一言も交わすことなく、指一本ふれ合うこともなく、ほとんど目をあげることさえもなしに、奇遇、誘惑、抱擁、大饗宴がくりひろげられるのでございます。」

この小説は、マルコ・ポーロがフビライ汗に自らが訪れた55の都市について、身ぶり手ぶりを交えながら物語っているものです。採りあげた一節は、「都市と交易」と題されて紹介されている都市クローエについてのものですが、ここではその都市の形態やそこにあるものの様子などに関しては全く語っていません。語っているものはひたすらマルコ・ポーロが通りで見かけた人々の様子についてだけです。彼にとっては、それが他の都市には決してないクローエだけの特別な都市の様相、例外だったのかもしれません。ひたすら人々の様子だけを述べているだけですが、何となくその通りや周辺の建物についてもイメージが及んできます。結果的に、その通りの人々があたかも風景になっているような、カルヴィーノの言葉を借りれば、人々が矢印やら星やら三角やらといった図形を描き出しているような感じもします。
これまでのところ魅力的な「路地的空間」というものは、冒頭で述べたようにその路地にある「もの」だけについて考えていました。しかしそこに「人々」が含まれることにより、さらに魅力的なものとなることがあるのではないかと思います。

ということで今日の路地は、映画「ブレードランナー」からデッカードが外へ逃げたゾーラの後を追って街の中を捜しまわるシーン。





文責 佐々木崇

3 件のコメント:

  1. 数ある物語の中から、この交易の街クローエを選んだのは何故でしょう?

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    1. つまり、クローエと路地の関係をもう少し語ってもらえれば

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    2. この章の冒頭で「クローエでは、道ゆく人はだれしも素姓を知られることがございません。彼らはたがいに顔を見交わすとき、それぞれに相手の身の上を思ってさまざまに想像をめぐらすのですーことによれば起こらないとも限らぬ彼ら同士の出会い、会話、驚き、抱擁、悔恨。」というように書かれています。彼らがすれ違う人々の姿かたちやふるまいから思い起こされる妄想を互いに交易することで、クローエは都市として存在し得ているように思いました。そして言い換えれば、表層に見える記号から次なる妄想を互いに繰り返し展開していくことは魅力的な路地的特質と似ているのではないでしょうか。そういった意味で、それら人々の関係が路地的であるなら、クローエにとって路地とは人々自身であるのだと感じます。しかし、そのためにはある程度の妄想を喚起させる風体があるのだと思います。路地をヴェネツィアの仮面をつけて歩く男女や、路地を浴衣に下駄を履いて手ぬぐいを持って歩く女性など、実際的に考えればそれは路地の魅力さを高めるだけかもしれませんが、重要な一面でもあると感じました。
       佐々木

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