2013年3月20日水曜日

今日の路地・9 暗色世界


今日紹介するのは、東秀紀氏による「荷風とル・コルビュジエのパリ」に登場する路地像です。
この本では、永井荷風とル・コルビュジエという、1908年3月のパリを同時に目撃した二人の芸術家の視点から都市が論じられています。両者ともにこのパリ訪問がその後の活動における思想の原点となったと同時に、全く正反対の理想都市を追い求めるようになるきっかけでもありました。



オーギュスト・ペレとの出会いを通し、「刺激的で、新しいものが始まろうとしている」パリを知ったル・コルビュジエ。彼にとってパリとは「あらゆる人と情報が集中し、展開する世界都市。古典と前衛の芸術が共存し、理性的な精神と感性的な情緒の交差する都」でした。一方でパリの路地つまり「ブールヴァール(表通り)の背後に隠れた裏通り」は、「彼が撲滅しなければならない、不衛生きわまりないスラム」だったのです。

彼は、大都市、特にその都心と表通りを愛した。(中略)他方で彼は、パリにやってきた頃住み着いた裏町には郷愁を覚えなかった。むしろ彼はそれを憎み、「ヴォワザン計画」では破壊し、中心に高速道路を持ち込み、土地の大半を緑地にして超高層ビルを林立させることを提案した。それはあのオスマンでさえ、思い及ばなかった大胆な計画であった。

一方で永井は、「一つの区域や建物にブルジョワジーから労働者まで雑多な人間が同居し、働く場と生活する場が混在した、コンパクトで高密度な都市空間」としてのパリに魅了されます。

「ふらんす物語」に収められた「雲」という短編で、荷風はパリには二つの世界があると書いている。その二つとは、「花、絹、繍取、香水」などによって創り出される「明色世界」と、「雑草、激流、青苔、土塊、砂礫」によって成り立つ「暗色世界」である。前者はシャンゼリゼ大通りや凱旋門などの繁華を彩る「花の都」の表面であり、後者はその裏側にある小路や空き地、墓地といった場所である。

狭い路地だが、人々の生活の匂いがふんぷんとし、古くからの記憶がこめられている街角。人々が生まれ、成長し、泣き、喜び、そしてひっそりと死んでいく場所。さまざまの痕跡と景観が、想像力をかきたて、物語を育んでいく小路。オスマンの改造の際に取り壊しを免れた、そういう「暗色世界」のパリこそが、住民たちにとって住みやすく、離れがたいものにしている、この都市の本質であり、文明の本質であり、文明の圧力や技術の発展を越えて、なおパリを生き続けさせていくものだ、と荷風は見て取ったのである。

これは、「無批判に近代化を推進する東京や、機械文明と実利志向のアメリカの諸都市に生活」したことで「文明のすさまじさに恐怖していた」永井の、オスマンにより新設されたブールヴァールに象徴される近代都市への違和感によるものでした。そして帰国後、永井はこのパリ体験を東京に敷衍したエッセイ「日和下駄 一名東京散策記」を発表し、江戸時代以来の風景に都市の理想像を見出します。

古いパリ、すなわち裏町に残る中世のパリと、市区改正で破壊されていく江戸の要素が、同じように近代以前の豊かで人間的な都市風景として、荷風の心の中で重なっていったのである。彼にこうした体験をもたせたのは、同じ年の、深川を訪れた体験によるものであった。(中略)ボードレール的空間をパリに探し求めた荷風にとって、深川の「衰残と零落とのいい尽し得ぬ純粋一致調和」は、まさに彼がパリの裏町において愛したものと呼応する風景であった。(中略)さらにそれは、近代化の中で、不安と憂鬱を含んだ彼個人の内面とも共鳴していったのである。

このように対照的な軌跡を描きながらも、晩年の二人の都市への視点は、やがてひとつの点へと歩み寄りつつありました。

最晩年のヴェネツィア病院にみられる空間は、それ自体は建築ではあるが、既存の都市への配慮を強く感じさせ、帝都復興事業の際に永井荷風が提案した「快活なる運河の都」と偶然にも一致している。(中略)「光」と「闇」を兼ね備えた都市をつくること。それが、かつてパリに触発された荷風が提案した東京の姿であり、終生パリにこだわり続けたル・コルビュジエが最後に残したスケッチであった。

(あとがきより)ロンシャン礼拝堂、ラ・トゥーレット修道院、そして未完のまま残されたヴェネツィアの病院プロジェクト―ル・コルビュジエは、これらによって彼が生涯をかけて取り組んできた近代建築・都市計画を、かつての機能や効率性優先とは異なった、精神的な方向に修正し、より高い次元で完結させようと決意していたのである。そしておそらく、変化の動機となったものは、第二次世界大戦の悲劇と、その末に彼を再び出迎えてくれたパリへの感動であったろう。疎開先から帰った時、彼と妻イヴォンヌを出迎えたのは、凱旋門やルーブル美術館、エッフェル塔などの象徴的建造物やブールヴァール沿いの美しい町並み、そしてカルチェ・ラタンの学生街や裏町、古い修道院に、なお人間的雰囲気のたちこめる、多様な魅力をもつパリの懐かしい姿だったからである。

この本の中で描かれる二人の思想の違いの背景に、路地ゼミで度々議論の的となる、日本人と西欧人の路地の捉え方の違いというものが存在していることは言うまでもなく、路地について考える上で極めて重要なトピックであることは間違いありません。しかしながらそれ以上に、二人の思想の軌跡が「明色世界」として築かれた近代都市の光と闇を我々に再認識させ、同時にその限界に対するアプローチとして路地のような「暗色世界」が持ち得る可能性を示唆していると解釈する事も出来るのではないでしょうか。抽象的なテーマではありますが、今後の路地ゼミを通し思考を深めていきたいと考えています。




今日の路地 「濹東綺譚」挿絵(1937

これは、晩年の永井が失われた裏町を求め、土地区画整理に取り残された玉ノ井地区へと通い詰め書いた「濹東綺譚」における、木村荘八氏による挿絵です。
「暗色世界」のなかに描かれた、今にも動き出しそうな、生き生きとした人々の姿が印象的です。



参考文献
東秀紀「荷風とル・コルビュジエのパリ」新潮社(1998/02

文責 津田光甫

1 件のコメント:

  1. 今日の先生のお話の中で、「路地」というものは、はじめからそこにあったものではなく、近代以降の意識の変革の中で発見されつつあるものであり、私たちはそれを収集し整理していくことの中ではじめて「路地的」であることの意味を問うていかなければならない、ということがありました。
    それは、直接的には、パリのオスマン改造にみられる様な封建的な大勢としての権力が都市を形づくっていくことが当然であった社会から、主権在民の方向へと社会が移り変わっていくことの中で、それまで其所に住む人々でさえもそれを「路地」として価値づけていなかった、そういった意識、認識そのものが存在し得なかったものが、近代以降の私たちの目を通してはじめて「路地」として発見されることであると思います。
    回りくどい言い方になってしまいましたが、そういった意味で改めて、コルビュジェの研究者である津田君が、この路地ゼミを通じてコルビュジェの中にあった路地的な視点を発見し言語化することがあり得るのならば、建築というこの狭い学問分野の中で、大きな発展に繋がることだと思います。
    そういった大胆な発見が津田君を通して今後為されていくことを、楽しみにしています。

    早田

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