2013年3月11日月曜日

今日の路地・1 「それから」

日本における「路地」はそもそも、「露地」や「辻子」といった余白や接点としての広場の意味をもっていたと言われています。それはまた、より単純に言えば、「家と家の隙間」であり、しつらえや生活の為の「通路」であるとも言えます。
私たちが第一回目のゼミを通して感得した「路地的である」ということの意味としてそれは、暗く狭くためらいを覚えると同時に身体的で安らぎを覚える場所であり、猥雑な物の集積や生活の滲みだした場所であることもあれば整えられしつらえられた共用部でもあり、人々の関心と無関心が表出され、副次的な産物であると供に主体性や統一感を持ち得、非形式的で即興的な個別性をもっていることは同時に封建的な匂いを残し、導入でもあり行き止まりでもあり、談笑の場や遊び場、時にはアジールとなることも出来れば、犯罪の温床とも異臭を放つゴミ捨て場ともなりうる様な場所である様として捉えられました。
そして魅力的な「路地的空間」は、奥へと誘う様な明暗の変化やカーブ、シンボルを持っており、テクスチャーや集積物によって不連続な統一が与えられ、公共的でありながら其所に生きる人々の所有の痕跡が感じられ、形式的であるよりはむしろアウラが感じられる様な空間であろうと思います。


今回、1つ目の路地を紹介するにあたって、いきなり反則を犯すことを申し訳なく思います。新潮文庫版の「それから」のカバーイラストとなっている絵は、安野光雅さんの描かれた変わりゆく東京市の風景だと思いますが、直接路地的空間とは関係があると考えてはいません。
1909年、明治42年に書かれた漱石の「それから」は、遊民的生活を送る主人公の代助が、旧友の平岡とその妻三千代に再会し、逡巡しながらも三千代を奪い去り、社会に背を向けて生きていこうとする一場面を描いた小説です。代助の実家は青山にあり、自身は神楽坂に住まいながら、平岡と三千代の家のある小石川との3つの場所を行き来する中で、代助の葛藤と事態に心酔していく様が描かれます。そしてその移動の最中に、当時の変わりゆく東京の路地的な空間が、漱石の身体を通して重要な場面として描きだされていきます。
オープニングを飾る路地として何が最もふさわしいかを考え倦ねた挙句、最も生き生きとその路地的な空間性が現れているものは漱石の文体の中にあるのではないかという考えに至り、それに見合う路地的な空間の映像は、今後の研究を通じて探していきたいと思っています。
少し長くなりますが、以下に簡単な説明と漱石の文章を示して、今日の路地の1つ目とさせていただきたいと思います。




3年ぶりに東京に戻って来た平岡夫妻の為に代助は新居を探して誂えます。そしてその家を代助は以下の様に見ます。
平岡の家はこの十数年来の物価騰貴に伴れて、中流階級が次第次第に切り詰められて行く有様を、住宅の上に善く代表した、尤も粗悪な見苦しき構えであった。とくに代助にはそう見えた。門と玄関の間が一間位しかない。勝手口もその通りである。そうして裏にも、横にも同じ様な窮屈な家が建てられていた。東京市の貧弱なる膨張に付け込んで、最低度の資本家が、なけなしの元手を二割及至三割の高利に廻そうと目論で、あたじけなく拵え上げた、生存競争の記念であった。
さらに代助は三千代のために実家へ金を工面しに行き、方々廻った挙句に失敗した帰り路である思考の転換を迎える出来事に遭遇します。
その夜は雨催の空が、地面と同じ様な色に見えた。停留所の赤い柱の傍に、たった一人立って電車を待ち合わしていると、遠い向うから小さい火の玉があらわれて、それが一直線に暗い中を上下に揺れつつ代助の方に近いて来るのが非常に淋しく感ぜられた。乗り込んで見ると、誰も居なかった。黒い着物を着た車掌と運転手の間に挟まれて、一種の音に埋まって動いて行くと、動いている車の外は真暗である。代助は一人明るい中に腰を掛けて、どこまでも電車に乗って、終に下りる機会がこないまで引っ張り廻される様な気がした。神楽坂へかかると、寂りとした路が左右の二階家に挟まれて、細長く前を塞いでいた。中途まで上って来たら、それが急に鳴り出した。代助は風が家の棟に当たると思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲われた。戸と障子と硝子の打ち合う音が、見る見る烈しくなって、ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ば竦んでいた。その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れてくる様に感じた。すると、突然右側の潜り戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ地震だ、大きな地震だと云って出て来た。代助はその男の声を聞いて漸く安心した。
そしてなんとか金の工面がつくと、すぐに平岡夫妻の家へ足を運びます。
「代助は晩飯も食わずに、すぐ又表へ出た。五軒町から江戸川の縁を伝って、河を向うへ越した時は、先刻散歩からの帰りの様に精神の困憊を感じていなかった。坂を上って伝通院の横へ出ると、細く高い烟突が寺と寺の間から、汚い煙を、雲の多い空に吐いていた。代助はそれを見て、貧弱な工業が、生存の為に無理に吐く呼吸を見苦しいものと思った。そうしてその近くに住む平岡と、この烟突とを暗々の裏に連想せずにはいられなかった。こう云う場合には、同情の念より美醜の念が先に立つのが、代助の常であった。代助はこの瞬間に、三千代の事をほとんど忘れてしまった位、空に散る憐れな石炭の烟に刺激された。」
その翌日に代助の宅を訪れた平岡は、三千代本人がまた来るからと言い、礼もそこそこに身の上の話をして去って行きます。
平岡はとうとう自分と離れてしまった。逢うたんびに、遠くにいて対応する様な気がする。実を云うと、平岡ばかりでない。誰に逢ってもそんな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかった。大地は自然に続いているけれども、その上に家を建てたら、忽ち切れ切れになってしまった。家の中にいる人間もまた切れ切れになってしまった。文明は我等をして孤独せしむるものだと、代助は解釈した。
その後、三千代への想いを抑え切れなくなった代助は、実家からのお見合いの催促を疎ましく思いながら、総てのことに嫌気がさし、一人旅にでも出ようと考えます。それは、実業家である兄家族と舞台を観劇しに行った翌日の思いつきでした。
代助は電車に乗って、銀座まで来た。朗かに風の往来を渡る午後であった。新橋の勧工場を一回りして、広い通りをぶらぶらと京橋の方へ下った。その時代助の眼には、向うの家が、芝居の書割の様に平たく見えた。青い空は、屋根の上にすぐ塗り付けられていた。
結局旅行もままならないまま、代助はつい頻繁に三千代のもとへ足を運んでしまう様になります。
平岡の家の近所へ来ると、暗い人影が蝙蝠の如く静かに其所、此処に動いた。粗末な板塀の隙間から、洋燈の灯が往来へ映った。三千代はその光の下で新聞を読んでいた。今頃新聞を読むのかと聞いたら、二返目だと答えた。
そして、三千代に持ち合わせの金を手渡した帰り路、代助はその心地よさの中に、旅行への逃避さえ諦めてしまいます。
代助は表へ出た。街を横断して小路へ下ると、あたりは暗くなった。代助は美しい夢を見た様に、暗い夜を切って歩いた。彼は三十分と立たないうちに、吾家の門前に来た。けれども門を潜る気がしなかった。彼は高い星を戴いて、静かな屋敷町をぐるぐる徘徊した。自分では、夜半まで歩き続けても疲れる事はなかろうと思った。とかくするうち、又自分の家の前へ出た。中は静かであった。
ついに三千代への告白も果たし、実家への不義理も果たした後、またふらふらと平岡夫妻の住む家まで出向き、夫婦の争う姿を盗み見て、代助は焦燥感に駆られて行きます。
しばらくは、何処をどう歩いているか夢中であった。その間代助の頭には今見た光景ばかりが煎り付く様におどっていた。それが、少し衰えると、今度は自己の行為に対して、云うべからざる汚辱の意味を感じた。彼は何の故に、斯かる下劣な真似をして、あたかも驚かされたかの如くに退却したのかを怪しんだ。彼は暗い小路に立って、世界が今夜に支配されつつある事を私かに喜んだ。しかも五月雨の重い空気に鎖されて、歩けば歩く程、窒息する様な心持がした。神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が頭を容赦なく焼いた。代助は逃げる様に藁店を上がった。
最後に、平岡に対して直接三千代を奪うことを告げた代助は、平岡から三千代は今病気であるからすぐに渡すわけにはいかないと断りを入れられて、自身の作り出した不安に飲み込まれて行くのです。
代助は三千代の門前を二三度行ったり来たりした。軒燈の下へ来る度に立ち止まって、耳を澄ました。五分乃至十分は凝としていた。しかし家の中の様子はまるで分からなかった。凡てが寂としていた。(…)彼の精神は鋭さの余りから来る迷信に陥った。三千代は危険だと想像した。三千代は今苦しみつつあると想像した。三千代は今死につつあると想像した。三千代は死ぬ前に、もう一遍自分に逢いたがって、死に切れずに息を偸んで生きていると想像した。代助は拳を固めて、割れる程平岡の門を敲かずにはいられなくなった。忽ち自分は平岡のものに指さえ触れる権利がない人間だと云う事に気が付いた。代助は恐ろしさの余り駆け出した。静かな小路の中に、自分の足音だけが高く響いた。代助は馳けながら猶恐ろしくなった。足を緩めた時は、非常に呼息が苦しくなった。
「それから」の中で描かれる東京は、明治から昭和にかけて変わりゆく街の姿を映し出しています。そしてそれは、観念に捕われていく代助の心情を如実に反映する舞台でもあり得たのだと思います。そこには暗く陰鬱な袋小路として、時には気持ちを写す身体的な外部空間として、路地が描かれていた。漱石にとってその路地は格好の舞台装置であった。そのことは、明治以降の日本の街を考えるにあたって、非常に重要なことではないかと思われるのです。


文責:早田 大高


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