2013年3月19日火曜日

今日の路地・8 『人間のための街路』


街路はエリアではなくヴォリュームである。街路は何も無い場所には存在し得ない。すなわち周囲の環境とは切り離すことができないのである。言い換えるなら、街路はそこに建ち並ぶ建物の同伴者に他ならない。街路は母体である。都市の部屋であり、豊かな土壌であり、また養育の場でもある。そしてその生存能力は、人びとのヒューマニティーに依存しているのとおなじくらい周囲の建築にも依存している。



路地ゼミが行われてから、何度か話の話題に上っていたバーナード・ルドルフスキーの『人間のための街路』の一節です。この本は「偉大な戸外空間、すなわち歩行者のための街路と、そしてそこで出会う人びとについて」書かれています。そして、
この本を未知の歩行者に捧げる
からこの本は始まっています。

では、具体的に街路が母体であるとする例をあげてみようと思います。今回は近々フィールドワークを行う予定である神楽坂を挙げてみることにします。
神楽坂は、ゼミの中で取り上げられた「しつらえの路地」と「生活の路地」のなかでは、しつらえの路地に入ります。神楽坂の街並みや街路は起伏在る地形の上に個性的に姿を現し、訪れる人にまちあるきの楽しさを提供しています。情緒豊かな名勝を持つ路地や坂は、時に蛇行し、時に階段を有します。直線的なものは少なく、神楽坂の背骨にあたる神楽坂通りも、わずかながらの角度で線形を変えています。そしてこの通りを歩くと、道の右側と左側の景観は異なり、上り・下りによっても表情が変わる。坂道は上りは視界の大半を両側の建物と路面がふさぎ、下る時には、場所により街路樹ごしに景色が遠くまで見通すことができます。そして路地の幅は、半間から一間(90-180cm)ほど、この狭い路地で人びとは道路では味わえなくなった気遣いや配慮を自然にこなしているのです。
神楽坂のまちの形成は中世以降に進み,江戸時代に現在のまちの骨格が出来上がりました。なので、現在の路地は中世時代のものと、明治以降に出来上がったものが混在しています。明治以降に出来た路地の形成過程は、料亭等の建物が新たに造られ、あるいは、いくつかが建て替えられると、それに面する路地が少しずつ変化していいきます。路地は、現在の道路のように一度つくられたら固定してしまうものではなく、少しずつ、延びたり、枝分かれしたり、時には消滅したりと姿を変えていたようです。
そう言った、その土地に住んでいる人びとの行いや振る舞いによって路地の形態が異なる時間軸とともに変化していく空間を、路地的空間と呼びたいと思います。



今日の路地 神楽坂熱海湯横丁

文責 百武けやき


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